2:焔の獣

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2:焔の獣

「わ……」  獣が一吼えすると、大きな口から炎の渦が吐き出された。  黒いお化けと一緒に周りの木々があっというまに真っ黒焦げになったけれど、真っ赤に燃えた炎は一瞬で消えてしまった。チリチリとまだくすぶっている炎はあるけれど、それも広がるほどの元気はないみたい。  わたしを、助けてくれたのかな。   「あの、ありがとう」  言葉が通じるとは思っていないけれど、でも、わたしに敵意を向けないどころか、怖いなにかから守ってくれた。だから、きっと怖くない獣なんだろうって思って、わたしは綺麗な炎色の毛皮をした獣に駆け寄ろうとした。  獣は一瞬だけわたしを見て牙を剥きだしたけれど、次の瞬間力なく地面に倒れてしまった。グルルルと力なく唸りながら、獣はこちらを睨んでいるけれど、さっきお化けに向けていた敵意みたいなものは感じない。 「大丈夫?」  腕を伸ばすと、獣の唸り声が大きくなる。でもそんなことは構わずにわたしは獣へ駆け寄ってしゃがみ込んだ。  毛皮が綺麗な夕焼け色だから気が付かなかったけれど、この獣は大きな傷を幾つか負っているみたいで、よく見ると血が毛皮を汚していた。 「……待ってて」  すり潰すと血を止める効果がある薬草と、痛みを和らげる草がすぐ側に生えているのを見つけて、わたしは急いで摘みに行く。  それから腰に付けていた革袋から水を取りだして、丈夫な葉で作ったお皿の上で薬草をすり潰した。  狩りを手伝うときに役に立てるようにって、薬草の煎じ方を覚えていて良かった。  ……獣に効くのかはわからないけれど……。  すり潰した薬草を塗るために傷口に手を伸ばしたわたしに対して、獣はもう唸ろうとはしなかった。  処置が終わったので、革袋に残っていた水を獣に飲ませるために頭の方へ近付いていく。  じっとわたしを見つめているけれど、怒ってはいなそうな獣に微笑んでから、わたしは鋭い牙が並んでいる口に革袋を持ったまま腕を突っ込んだ。  目を丸くしながら、慌てたように大きく開いた口へわたしはそのまま獣の口に水を流し込む。 「……俺が人を食う獣だったらどうするつもりだ」  水を飲ませ終わり、空になった革袋を腰に括り付けていると、誰かの声がした。  首を傾げていると、獣が頭をもちあげてこちらを見ている。 「声の主は、あんたの目の前にいる」  溜め息をつく獣の仕草は、とても人間臭くて思わず笑ってしまいながら、わたしは低くて柔らかい声の彼に言葉を返した。 「あなたはわたしを守ってくれたもの。食べられるなんて思わなかったわ」  眉間に深くシワを寄せている獣に対して、わたしは更に一言付け加えた。 「まあ、喋るとまでは思わなかったけれど」 「この世界では獣は普通喋らないのだろう。怖がらせるつもりは無くて黙っていただけだ」  じっとわたしを見つめていた視線を外して、ふうと溜め息を吐く焔色の獣は、ずいぶん人間臭く見える。  きっと、悪い人? 獣? ではないんだと思う。わたしを殺すつもりなら、あの黒いお化けを追い払ったあとにすぐに襲いかかってくるはずだもの。  ケガをしているんだとしても、わたしを殺すなんて簡単だから。 「じゃあ、なぜ急に話をしてくれたの?」  興味本位で、目の前で前脚を組んでいる獣に更に言葉を重ねる。  もう一歩近付いてみても、鋭い牙や爪がわたしを傷付けてきそうな様子はない。 「あんたがあまりにも無防備で危なっかしいからだ」  その声は、少しだけ呆れているような、怒っているような響きがこもっていた。 「いいな、大きな獣なんて助けようとするな。いつか死ぬぞ」 「それは困るけど……でも、あなたみたいに素敵な獣と仲良くなれたわ」  眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいるけれど、きらきらと燃える炎に似た瞳の中に灯っている光は、とてもやさしいもののように思える。 「変なやつだな。まあいい。家があるならさっさと帰れ。魔物は倒したが……また集まってくるかもしれないからな」 「魔物って、さっきの黒いお化けのことかしら? 困ったわ……。まだ村まで遠いのに」  獣の言葉で、もうすっかり日が暮れていることに気が付いた。  さっきは迷っていたけれど、多分、ここはまだ神殿の近くのはずだ。村まではしばらく歩かなければいけない。  「……俺の爪でも持っていけ。少しの間だけだが、良くないものを退ける効果がある」  そういって、獣は自分の前脚を持ち上げて口元へ持っていくと、あっさりとそれに噛みついた。 「な……」  ぼたぼたと血の滴る音がして、骨の折れる音も聞こえてくる。  なのに、獣は痛い素振りを見せるどころかなんともない様子で、口をもぐもぐと動かしている。  言葉を失っているわたしをみて、スッと目を細めた獣は、ベッとその場に真っ黒な爪を何本か吐き出した。  黒曜石のように綺麗だけれど……でも。  戸惑っていると、生温かい吐息がわたしの頬をそっと撫でる。 「どうということはない。俺は死ねない体だからな。このくらいの傷ならすぐに治る」 「でも……大怪我を」 「なに、ちょっと体が三等分になっただけだ。俺をこんな体にしたやつは食ってやったから安心していい」 「そうじゃなくて!」  会ったばかりのわたしに、治るとは言え、自分の体を傷付けて何かをくれるなんて……。獣は、わたしが神の御子だなんて知らないはずなのに。  言葉が出ないまま、わたしは獣を睨み付ける。でも、わたしが少しすごんでみても、大きな獣にはなんの脅威にもならないみたい。   「早くしろ。俺だけなら、魔物は寄ってこない。さっさと帰れ」 「……あの、ありがとう」  獣は、地面に落ちている爪の欠片を鼻先でぐいっと押した。  黒曜石のように綺麗で鋭い爪は、うかつに触ると手が切れてしまいそうで、わたしは腰に巻き付けていた布を外して、そっと爪を包んで手に取った。 「心配をするな。ほら、もう前脚なら生えてきた」  そういって獣はさっき噛みついて先端が失われたはずの前脚を持ち上げて見せてきた。  じっと見つめても、変な気配も嫌なものも見えたりしない。本当に……この獣は死ぬことがないんだろうか?  あれこれ聞きたくて、爪を胸に抱いたまま一歩前に出ようとしたその時、遠くから誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえてきた。  聞き慣れた声は、とても弱々しくて、不安そうで、つい、目の前にいる美しい獣から目を離す。  それから、あらためて空を見上げてみると、月が空高い場所にまで顔を出していることに気が付いた。 「夕方には帰るはずだったもんね……」 「……俺は大丈夫だ。あんたのお陰で痛みも楽になった。怪我ももうじき癒える。魔物共には負けたりしない」  不安げに漏らした声に、獣は呼応してくれる。 「本当に?」 「ああ。本当だ」  ぱたぱたと尾で地面を叩く獣は、逸らしていた視線をようやく戻してくれた。  辺り一面の空気を震わせるような「おおおん」という一吼えだけして、獣は夜の闇の中へと姿を眩ましていく。  目の前で傷が治るところも見たことだし、あの美しく気高そうな獣が嘘や強がりを言うとは思えない。さっきあったばかりだけど、そんな気がした。 「カヤール……どこだ?」  あの獣が放った一吠えの余韻に浸っていると、聞き慣れた声が近くの茂みから響いてくる。  コダルトだってすぐにわかった。きっと御子の帰りが遅いことを心配して、日暮れと共に森の中へ入ってきたにちがいない。  わたしに気が付かないまま森の奥へ行って、黒いお化けにあったりしても大変だし、早く合流しよう。 「ここよ!」  木々の間から、ゆらゆらと松明の炎が見える。それがさっきまで一緒にいた大きな獣を彷彿とさせて、別れたばかりなのにあの獣のことがどうしても気になってしまう。  また、日が明けて少し経ったら森に来てみよう。あの獣は何を食べるんだろう。お肉かしら? 大角鹿(トナカイ)の乳なら飲めるのかな。  今日のお礼を出来たらいいのだけれど。 「カヤール! 遅いから心配したんだぞ」 「黒いモヤモヤのお化けに追いかけれられて……道に迷っていて」  眉尻を下げながら駆け寄ってきたコダルトが、わたしを抱きしめるので、彼の背中へ腕を回しながら何が起こったのかを彼に話した。大きくて美しい獣と出会ったことは、とりあえず隠しながら。   彼から体を離し、腕を後ろで組むふりをして獣が渡してくれた爪をそっとポケットの中へ隠す。 「……噂には聞いていたが、とうとう村の近くにも出たのか」 「日が暮れてきたら、急に現れて……」 「とにかく、早く帰ろう」  わたしの話を聞いたコダルトは松明の炎で辺りを照らしたけれど、夜の闇に飲まれた森は、光に驚いた生き物が逃げたのか、茂みが揺れたくらいで異変は見当たらない。  遠くからは、聞こえてくる狼の遠吠えが、あの美しい獣のものだったらいいななんて考えながら、わたしは彼に腕を引かれて村への帰路へついた。
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