1:神の御子

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1:神の御子

 深く息を吸うと、周りの空気の冷たさが体の内側に染みこんでくるみたいだった。  目を瞑って、指を組み合わせた両手を額へくっ付ける。目の前に焚かれている香炉へと意識を向けながら、ゆっくりと鼻先を天井へ持ち上げると、金で出来た耳輪と、よく磨いた白狼の骨で作られた頭輪がシャラシャラと透き通った音を立てた。  石造りの祭壇にはわたししかいない。  冬の間に乾燥させた薫衣草(ラベンダー)が、炉で炭が焼かれるチリチリという音も、自分の呼吸すらも徐々に遠くなってくると、白んだ空から神が舞い降りてくるのがわかる。  きらきらとした光をまとった深緑色で半透明の存在が差し伸べてきた二つの掌が、わたしの体を包み込んだ。そして、お腹の底から湧き上がってくるのは、どうしようもなく幸せで満ち足りているという気持ち。  わたしは今年も役目を果たせるという安堵感と、神はわたしたちを見捨てずに愛してくれるということを確かに感じながら、わたしからも神に手を伸ばす。 ――愛しい愛しいわたしの御子。今年もおまえたちにわたくしの恵みを譲りましょう。  夏に生い茂る木々の葉が擦れるようにも、優しい女の人のようにも、しわがれた老人のようにも聞こえる不思議なその声は、わたしの体の内側にやわらかく響いてくる。  自分の顔と同じ位ある人差し指の腹でそっと額を撫でられて、わたしの体には陽だまりのような温かな力が流れ込んでくる。  次の春までの間、わたしは神様から譲って頂いたこの力を村のために役立てていく。  山と崖に囲まれた小さな村が、豊かに暮らせているのは、ずっとずっと昔から、こうやってわたしたちの一族が神様から譲ってもらった力をみんなのために使ってきたから。 ――愛しいおまえたちが栄えてくれるよう、わたくしも見守っています。  温かさでじんわりと汗ばんできたわたしを、神様は静かに地面へ降ろすと、そのまま空へ溶けるように消えていく。  寂しい気持ちと、今年も無事に力を譲っていただけたことに感謝を込めてわたしは胸元で両手を合わせながら、深く頭を垂れた。  山の向こうにある村では神の御子が途絶えたと聞いた。異界から来たという角が生えた者たちが、御子達をさらっているという噂もまことしやかに囁かれている。  神の使い(妖精)たちが、見えない子供達も昔よりずっと増えている。それがよくないことなのかもしれないけれど、わたしにはどうしようもできない。  世界の仕組みが変わってきているのだとしても……わたしに出来るのは神に祈りを捧げることだけだから……。こうして、神様に感謝を捧げ、得た力を村のために行使するしかない。 「村に、戻らなきゃ。コダルトが心配してる」  儀式を終え、我に返る。ふと、いつも自分の事をいつも心配してくれる幼馴染みの顔が思い浮かんだ。うんと首を持ち上げないといけないくらい高い背と、短く切りそろえられた綺麗な白金色の髪が綺麗な人。困ったように優しく垂れ下がった眉と、そして冬の空みたいに綺麗な青い瞳。  領主の長子である彼と、わたしはいつか結婚するのだと思う。それから、子を成して、きっとその子のうちの誰かが、村のためにわたしと同じことをするんだと思う。  神の御子として祭壇で祈り、神様から認められたら村のみんなから祝福されて、それから……村のためにこうして祈りを捧げるの。  コダルトも、わたしも、お互いを好きだけれど、それは胸を焦がすようなものではない。義務のためにわたしの人生を背負わせるのは酷なことだとも思っている。  できるなら、コダルトには想っている人と幸せになって欲しい。移譲の御子の血を引くものをたくさん残すために、たくさん育てるためには、領主が娶るべきだという意見を優しい彼は断れないだけだと思うから。  そこまで考えて、溜め息を吐く。  わたしも神の御子として、次の子を残すために誰かの子を孕まなければならない。それなら、好きでもない人と結ばれるよりは、わたしのことを知っている幼馴染みの優しい彼の方がいいのだと思うし、村のためにもそうすべきなのだろう。好きな人がいるわけでもないのだし。  それでも、許されるのなら、身を焦がすほどの恋というものをしてみて、心から好きになった人との子供を残したい。そう思ってしまう。 「こんなへんぴな場所に、急にそんな人が現れるわけないから、考えるだけ無駄なんだけどね」  自分に言い聞かせながら、香炉の火を消して、軽く祭壇を掃除する。  今していたのは神への祈り。神と繋がり、恵みの力を維持するための儀式。  他者の持っている記憶、能力、病気、呪いなどを別の人へ『移譲する』という力。それが、神の御子だった母から、わたしに譲られた力。  神様の気配が完全に消えて、木々の揺れや動物の声がわたしの耳に戻ってくる。  祭壇から降りて、木靴を履いて、上着を羽織る。  春だとはいっても、村から少し離れた森の奥はまだ肌寒い。靴紐をちゃんと結んでから、しっかりと閉じられている石の扉を思い切り体重をかけながら押した。  薄灰色の高い壁で覆われている神殿は、天井が無い。もう一度、開くときと同じように体重を思いきりかけながら石の扉を閉めて、()を締めたことを確認する。  特に盗まれて困るものはないけれど、獣たちが入ってきて中を荒らすのは掃除が大変で困るから。 「早く帰らなきゃ」  出てくるときは高く昇っていた太陽は、すっかり低くなっていて空を赤く染めている。  まるで焚き火のようだなって思った。ぱちぱちと木が(はじ)ける音と共に轟々と燃えさかる炎は、少しだけ怖いけれど、美しくて好きだった。  炎の周りを歌いながら飛んでいる神の使い(妖精)たちは綺麗だし、見ているだけで楽しい気持ちになる。 「みんなも、コダルトも心配してるかな」  祈りを捧げる日、太陽が空に昇っている間は神が認めた一人しか森に入れない。それ以外の人間が来ると森に住む妖精達に連れて行かれたり、迷ってしまったりすると言い伝えられているから。  例外として、御子の代替わりの時だけは神の御子とその子供が入ってもいいとされているのだけれど……。  病で亡くなった母さんと、この道をはじめて来た時を思い出しながら、わたしは帰路を急ぐことにした。 「……クワセロ……クワセロ……ウマソウダ」  最初は風の音だと思った。嫌な気配がして、視線が増えていく。  まとわりつくような視線はいつしかわたしを取り囲んでいて、風の音だと思っていた囁きは、物騒なものに変わっていく。  ガサゴソと薮が蠢いて、獣でも神の使い(妖精)ではない気配が濃くなってくる。  生温かい息遣いが首元を這い回っても、髪を引っ張られても無視をして帰路を急ぐ。  何度も、何度も通った道のはずなのに、ぐるぐると同じ場所ばかり回っている気がする。  心の中で「無事にわたしを返してください」と神様に祈りながら歩いていると、木の根っこみたいなものに躓いて、わたしは体のバランスを崩す。  もうだめ! そう思ったけれど、わたしの体はふかふかとして温かい何かに包まれた。  次の瞬間、ゴウと風が唸り、体の近くを熱いなにかが吹き抜けた。  わたしの体を受け止めたふかふかしたなにかは「グルルル」と低く唸る。  その声を聞いて、わたしは自分が躓いたものが巨大な狼に似た獣だということをようやく理解した。  轟々と燃えさかる焚き火の炎に似た、波打つように揺れる焔の毛皮……火の輝きを閉じ込めたような鋭い瞳……わたしの頭くらいなら軽々と噛み砕けそうな大きな頭と鋭い牙の並んだ口。 「ご、ごめんなさい」  その美しい獣の姿に看取れてしまいそうだったけれど、唸り声を聞いて、とっさに謝った。言葉が通じるとは思っていないのだけれど。  噛まれる……と感じて身構えたけれど、その獣はわたしを無視して、わたしの後ろにいる何かに向かって威嚇の声をあげているみたいだった。  獣の視線の先へ、わたしも目を向けると、そこには黒い靄をまとったぬめぬめとした球体がふわふわと浮かんでいる。 「グルルル」  低い声で唸ったまま、獣はわたしの横を通り過ぎて、黒いお化けを睨み付けている。それに、少しだけ開かれた大きな口からは、黒煙が立ち上り、牙と牙の間からは口の中に留めているのであろう炎が吹きだしていた。  ふよふよと浮いたまま消えようとしないお化けが、威嚇する獣をものともせずにこちらへ近付いて来たその時、獣が大きく口を開いたのが見えた。
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