「全部忘れるくらい」

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 両親も兄も、家族の大事なことを何も話してくれない。私は蚊帳の外だ。  目の前にあったお酒の入ったグラスを一気に飲み干す。 「あ、美晴も怜南ちゃんもグラス空じゃん。次何にする?」 「じゃあハイボール!濃いめで~」 「…私も、美晴と同じもので…お願いします」  空のグラスに気づいた女性の先輩が次のものをオーダーしてくれた。  先輩がそばを離れると、またお互いの兄と姉の話に戻る。 「婚約したとはいえ、いつ頃結婚するんだろうねえ。結婚式するのかな」 「お兄ちゃん…忙しいから、ね。どうなんだろう」 「まあ確かに救命は他と比べたら忙しい方かもしれないけど…。うちの姉ちゃんは医者の忙しさとしては普通じゃない?」  美晴は私の兄のこともよく知っている。 「お姉さんは何科、だったっけ…?」 「えー、うちは両親も姉もみんな産婦人科じゃん!怜南のお母さんと一緒でしょ?」 「あ…ごめん、そうだった」  何も知らない。本当に何も。  ふと先ほどの美晴の言葉を思い出す。 「お姉さん、そんなに忙しくない…?」 「どうなんだろ。当直はあるけど残業したりはあんまりないかなあ。休みもちゃんとあるし」 「そう、なの…?呼び出し(オンコール)は?」 「たまーにあるけど…。でもちゃんと毎日家には帰ってきてるしね」  どういうこと…?私の両親と兄は仕事が忙しくて、めったに自宅に帰ってこないのに。 「ご両親も…昔から…ちゃんと帰ってきてた?」 「普通に帰ってきてたよ。あそこの病院大きいし医者の数も多いし、病院に何日も泊まり込み~なんてブラックなことさせないでしょ」  私はもう何も言えなかった。手が、震える。  昔から耐えてきた孤独は、悲しさは、破られ続けた約束は、いったい何だったのだろう。 「ああ、そういえばこの間の週末に、両親と姉ちゃんが怜南のうちに行ったって言ってたよ」 「…そうなんだ。私がいない時だったのかも」  週末は和泉さんの家に行っているから。鉢合わせにならなくて良かった。何も知らない私と会ったところで全員が気まずい思いをするだけだ。 「おうち、病院近くの大きいマンションなんでしょ?」 「お待たせしました~!ハイボール濃いめになりま~す。こちら生搾りレモンサワーとウーロンハイ、梅酒ソーダで~す。ごゆっくりどうぞ~」  ちょうど良く個室の襖が開いて、元気な店員が飲み物を運んできた。  今、美晴はなんて言っていただろうか。病院近くのマンション…?私の家は病院から離れた住宅街にある一軒家だ。  もう、何も考えたくなかった。
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