「全部忘れるくらい」

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 スタッフルームのソファに怜南を座らせて水を飲ませようとしたのだが、完全に寝ているのか飲もうとしない。 「仕方ないか。あとで怒るなよ」  俺は自分の口に水を含んで、彼女の口を塞いだ。ふっくらとした唇の隙間から水が流れ込んで、コクッコクッという小さな音と共に飲み込まれたのが分かった。  唇の端から少しだけ流れ落ちる水滴が少し官能的だった。 「こっち」  ドアを開けて平岡を呼ぶと、カウンター内に向かって会釈しながらスタッフルームに入ってきた。 「そこ座って」 「ありがとうございます」  座りながら寝ている怜南の隣に俺が、その向かいに平岡が腰をかける。 「突然すみませんでした。怜南のことでお話ししたいことがあって」 「こいつがこんなんになってる理由、なんか心当たりあるんだろ」  特に何もなかったと言った後、何かに気付いたように「姉ちゃんの」と口にしたのを俺は聞き逃さなかった。 「…はい。あの、何から話していいか…。怜南の家族の職業、知ってますか」 「知ってるけど」 「…うちもなんです。両親も、姉も」  ああ、怜南が一番嫌がる話題。本人は周りに気を遣ってはっきりと嫌だとは言わないが、辛かった記憶や悲しかった思い出が蘇るのだろう、いい顔はしない。  そのあと聞いたのは、衝撃的な話だった。  怜南の兄と平岡の姉が婚約したこと。それも学生時代からの付き合いで、平岡自身も怜南の兄と交流があるらしい。  両親と姉は怜南の家族と同じ病院、同じ科で働いていた時期があり、何日も家に帰れないというようなブラックな職場環境ではなかったこと。 「は?怜南の家が、病院近くのマンション…?」 「…はい。今思えば、それを言ったときに顔色が変わってたかもしれません。そこからは心配するくらい飲んでました」  待て。マンションってどういうことだ。  つまり、あの一軒家以外に両親と兄が住む家があるということか。それを他人の口から聞いた怜南は、一体どんな心境だったのか想像もできない。 「もういい。分かった」 「…すみませんでした。こんな風になるなんて」  ただでさえ、家族の話をしたがらない怜南に、追い討ちをかけるかのように判明した新事実の数々。彼女の心は限界かもしれない。 「いや、お前のせいじゃない。ただ、もう怜南に家族の話はしないでやって。トラウマなんだ」 「え…それってどういう…」 「これは俺の話すことじゃない。こいつが話したくなったときに自分から話すだろ」  平岡は自責の念があるのか、なんとも言えない辛そうな表情をしていた。  終電がまだあるというのでそのまま帰し、俺も眠っている怜南を連れてタクシーで自宅へ向かった。 ♢♢♢♢♢ 絢斗side fin.
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