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 それから私は小説を読む時間も書く時間も大きく減らした。仕事や家事と夫と過ごす時間以外は経済や投資の勉強を始めた。 兄に負けたくない。嫉妬と恨みがモチベーションの間違えた負けず嫌いは止まらない。出来ないなりに初心者向けの経済や投資の本を買い、難しくて眠くなる本を読み漁る。 経済新聞の電子版を読む事も始めた。分からない言葉を調べて意味を書き留めるノートが少しずつ埋まっていく。勉強をした「気になったような」満足感が生まれた。身についているかはかなり怪しい。  未知の分野の経済を知る喜びはあったものの、感情がどんどんフラットになり感受性まで鈍る。実際に少額でも株をやるようになると、小説を読んだり書いたりする時間を全て削って、決算書の読み方や株価の仕組みを学ぶ。どんなに勉強して予測をしても当たるとは限らない、外れる事の方が多い。  経済の勉強や将来へのお金の備えなんて。苦手なこと、嫌なこと、本当は一番やりたくないことのはずなのに。小説を読んだり書いたりする方に戻りたい。読む方は楽しく進んでも書く方は…。「小説つまんねえよ」、兄のあの一言のせいにしたかった。本当は違う。もっと上手い書き手が幾らでもいる世界で、足掻き続ける事に少しだけ疲れていた。  自分の好きなことから逃げるための口実が欲しかった。負けず嫌いの負のパワーも使い方によっては正になるかもしれない。 とにかく勝ちたい。 何に勝ちたいの?お金を儲けたいの? それもあるけど、兄を見返して勝ちたい。 投資がそんなに甘い世界だと思ってるの? 甘くはないのは知ってるけどやってみたい。 痛い目を見ないとわからない馬鹿だね。  自分の中の理性と感情の声が心の中で交互に響き続ける。  そう私は馬鹿だよ、生まれてからずっと。どんなに強がっても殆んどの事で兄に勝てた試しがない。それでも懲りずに負けず嫌いを貫くのは、弟や妹に生まれた人の宿命。世の中の弟と妹に申し訳ないけれど勝手に思い込んで決めつけることにした。年が上だから何でも先に出来るようになる兄や姉に必死で追いつきあわよくば追い抜きたい。遠い記憶の子供の頃の追いつけない焦りが、大人になっても急に首をもたげてくる瞬間がある。  日々目まぐるしく変わる、債券、株価、為替のグラフは、真横に一文字に伸びた茎から生えるシダの鋭い葉。ローソク足と呼ばれる棒グラフは、凸凹を使って組み立てるレゴブロックを適当に繋げて作ったいびつな橋。こんなつまらない比喩が浮かぶときに、ふと小説の世界に戻りたくなる。  書くことはまだ怖い、だから小説を読む。 数字と利益を追い掛ける日々に慣れ過ぎたせいか、以前は鮮やかに響いた物語の感動が何枚も重ねた手袋越しにしか掴めない。微かに感じる心の揺らぎは読了感の満足で打ち消された。また自分も何かを書きたいという正しい負けず嫌いには繋がらなかった。  間違えた負けず嫌いを直す薬はまだ見つからない。 仕事が休みで夫と休みが合わない日は株価に翻弄され続けている。夫と休みが会う日は株の事を忘れられる。兄に勝ちたい、儲けたい、いっぱしの投資家になってみたい。薄っぺらい欲と自分が一番憎んでいたはずの虚栄心が混ざり合う。二つが増幅されたつぼみから、負けず嫌いの鈍色に輝く花が咲いた。  平日休みの仕事で良かった。株を始めたときは素直にそう思った。新しく知ったことが実践で出来るようになる喜びで、気持ちに余裕もあった。数百円のプラスを出したときは、ここで気を大きくしないように注意深くなった。でも、たった千数百円程度の損失で狼狽えてしまう。損を取り戻すためにその日のうちに売買する難易度の高いデイトレードに手を出した。休日に少しの利益でいい、せめてマイナスをプラスにしてから止めたい。  焦りの連鎖に陥らないように、慎重に狡猾に小さな利益を狙い続けた。もう少し、あと百円位でプラスに戻る。そんなときにヒヤリとするミスを犯した。配当という長期で持てば利息のようなものが出る少額の株しか売買しないと決めていたのに、勘違いして配当の無い株にまで手を伸ばしていた。  焦らないと自分に言い聞かせていたのに、相当焦っている。その株が売れるまでの数分、吐き気と鈍い頭痛が止まらなかった。売れなかったら配当なしの株を持ち続ける。買った値段より上がるとは限らない、下がったら幾ら損するのか。こんな思いをしてまで株をやるべきなのか?もう、懲り懲りだ。 スマホの証券アプリを閉じて、ネットニュースを見ると中国の不動産会社が経営難で中国の景気に陰りが出て来たという。  完全か素人考えだけれど、昔の上海バブルの崩壊を連想させる。これからまさか…。 間違えた負けず嫌いを直す薬がやっと見つかった気がした。 ◯間違えた負けず嫌いを直す薬の主成分◯ ①やれる所までやってみたという事実 ②向き不向きがあると納得する諦め時 ③余裕がないときのミスから目を逸らさない ④大きな失敗をしないように少しずつ進む □効能・効果□ ・心が荒むことを止めたくなる ・限りある時間の使い方を見直す ・好きなことに自信を持てる ◯間違えた負けず嫌いは病気ではありません ◯遠回りでも好きなことに戻るきっかけになるので、間違えた負けず嫌いは人生の香辛料 ◯「間違えた負けず嫌いを直す薬」、主成分や効能効果は人によって異なります。自分でお薬は調合してください 自分で編み出した「間違えた負けず嫌いを直すお薬」の主成分と効能効果を、早速小説サイトに綴っていた。  やっぱり私は兄より馬鹿だ。どうせ馬鹿なら好きなことで正しい負けず嫌いでいよう。 (了)                
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