黄昏を飲む

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黄昏を飲む

 小さな獣は道なき道を歩いていた。足取りは重く、息は荒い。背中の傷から滴る血が体に当たる低木の葉に拭われ、点々と零れ落ちては踏みしめた下草を染めていく。熱を持ちはじめた傷の痛みに時折顔を歪めながら、それでも休まずに獣は歩き続ける。獣を追うものがあるからだった。不安に駆られて、獣は耳をそばだてた。自身を襲った獰猛な怪物の気配を探るためだが、頭上で群れを成したひぐらしの声が邪魔をする。獣は顔を上げた。葉越しの空は夕暮れを呈していた 。  気を取り直して歩み出そうとした獣の耳が、微かな水音を捉えた。向きを変えてそちらへと進んでいくと、すぐに木立が消えた。頭上には、木々に切り取られた丸い空がある。木陰を抜けたその獣は、眩しさに目を細めた。それは一匹の三毛猫だった。細い手足に比べて胴が太い。怪我をしていなくても、歩きにくさが伺える不格好さだ。三毛猫は、開けた空間の中心へと足を進める。池があった。水面は波一つない静けさで、黄昏に輝いている。岸までたどり着いた三毛猫は、慎重にひげで水面との距離を測り、池のにおいを嗅いだのちに、おそるおそる舌を出す。舌先を水面につけると、懸命に水を掬い上げて喉を潤した。まともな水を口にするのは、実に三日ぶりのことだった。  三毛猫は、土地勘のないこの山を実に三日三晩も歩き通していた。「山の向こうには、猫の楽園がある」というのは、主人が消えた街で耳にした野良猫たちの噂話だった。その言葉を信じて、縄張り争いの絶えない街を見切り、山肌を覆う森林を歩いている。  ひとしきり水を口にしたところで、三毛猫は先ほどまで輝いていた水面が暗い藍色へと変化していることに気づいた。見上げるが、空はまだ夕暮れだ。何か尋常ならざるものを感じて、三毛猫は池から身を離そうとした。  対岸から犬のものと思われる遠吠えが聞こえ、草を掻き分けるような音が迫ってくる。前方だけではない。三毛猫の背後からも、なにか重い振動が伝わってきた。三毛猫は、近くの低木の陰へと素早く身を潜めると振り返った。  対岸には、雑種であろうか、街では見たことのない姿形をした犬に似た獣が二匹現れた。二匹は、池の周りを俊足で駆け抜ける。対して、三毛猫の傍の木陰から現れたのは、あの獰猛な黒い怪物だった。怪物は後ろ脚で立ち上がると、先陣をきって飛び掛かってきた一匹を、たった一撃で木立の中へと薙ぎ払った。それは木の幹にぶつかり、短い悲鳴を上げて下草へと消える。もう一匹もけたたましく吠えて威嚇したが、怪物はその巨体から想像ができないほどの速さで距離を縮めると、再び前足を使って地面へと叩き落とした。  三毛猫は周りを見回した。怪物の厄介な小さい連れが居ないことを確認し、怪物の注意が犬たちに向かっているうちに逃げ出そうとした。しかし、一度屈(かが)んだ後ろ脚は鉛のように重く、思うように動かない。怪物は、地面を這いながら体勢を立て直そうとする犬へと襲い掛かる。その時、三毛猫の後方から怪物に向かって一陣の風が吹いた。怪物は鼻をぴくりと動かすと、連れの食料を奪った獣――三毛猫の匂いをたどって顔を向けた。その胸元には、にたりと笑った三日月があった。隙を見つけた犬は、木立の中へと逃げていく。遠ざかる音と近づく怪物の息の音を耳にとどめながら、三毛猫は震えた。  怪物は、三毛猫のところへと確かな歩みで近づくと、大きく口を開ける。一瞬、三毛猫の瞳が光り、呼応するように怪物の瞳が光ったが、両者ともそのことには気づかなかった。怪物は、生気を抜かれたように動きを止める。三毛猫は、命を乞いながら意識を失った。
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