白露の泥棒

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白露の泥棒

  秋雨は、夏の暑さだけでなく事件の痕跡までも洗い流してしまうことを、鼻を利かせる汰朗(たろう)は痛感した。盗難のあった庭に嗅ぎ分けられたのは微かに残った雄猫の匂いだけで、その軌跡を辿ろうとすれば、水気を吸って立ち上る土の匂いに阻まれてしまう。汰朗は、高齢犬に差し掛かる自身の嗅覚の衰えを感じて気を落とした。  視界の隅に写った人影と、近付いてきた足音に汰朗は振り返る。聞き知った音の主は、先ほどまで家主の女性と話していた眞弓(まゆみ)だ。「わかりそう?」と尋ねられ、汰朗は首を横に振った。眞弓は答える代わりに しゃがみ込み、汰朗の背や顎の下を優しく撫でた。  洗濯物の盗難は、九月に入って四件目になる。決まって無くなるのは手拭いやフェイスタオルなど小ぶりなもので、今回は赤子用のタオルだった。関連性が見出されたのは三日前の三件目からで、九月に入って連日のように続く雨が調査を困難にしていた。  家主とその赤子の泣き声に見送られながら、眞弓と汰朗は家路へと足を運んだ。眞弓が引く自転車の車輪がカラカラと乾いた音を立てる。前かごには、眞弓の通学鞄と一緒に家主に渡された紙袋が入っていた。中身は庭で採れた柿だという。今年は山林のどんぐりをはじめとした堅果類(けんかるい)が凶作で、麓の住居は餌になるものを撤去するようにと狛山(こまやま)の宗家から達しがあった、というのが家主の言だ。  山を越えた風が田に茂る稲穂を撫で、あぜ道をも吹きぬけて、眞弓のセーラースカートとショートカットを寒々しく揺らした。山の冬は厳しい。山間にあるここ、神代町もまた、秋が過ぎれば厳しい冬が待っているという。  不意に何かが震えるくぐもった音が聞こえた。眞弓は鞄から四角く小さい機械を取り出すと、耳にあてた。 『急なご連絡をお許しください。依頼をお願いしたいのですが、お越しいただくことは可能でしょうか』  スマートフォンから聞こえてきたのは、畏(かしこ)まった初老の声だった。医師の相島博忠(あいじまひろただ)だ。「はい、もちろんです」と間を空けずに答えた眞弓の口元がへの字に曲がる。眞弓が困ったときにする動作だ。呼び出しよりも、二周りも年上に丁重に話されて心地の悪さを感じているのだろう。 『お越しいただきたいのは、中祇(なかぎ)の東にある患者さんのお家です。番地は改めて、メールでご連絡しますね』 「わかりました。お待ちしております」  眞弓が電話を切ると、ややしてスマートフォンが再び震えた。眞弓は画面上でてきぱきと指を動かすと、ここからそう遠くないよ、と汰朗に笑いかけた。汰朗は、こくりと頷きながら、何度見ても慣れないその俊敏さに感心する。あの小さい機械の中で何が行われているのか、汰朗は未だ理解しきれていない。 「先生から依頼ってなんだろう。珍しいね」 「さあ。我々に務まるような内容だといいのだがね」  謙遜でなく口をついたのは、先程の依頼で思いの外、力になれなかったからだろう。唯一掴めた手掛かりは三件目と同じ雄猫の匂いだが、雄猫とひと口に言っても、この町に一体何匹の雄猫がいるだろうか。人家の少ない町の東側で起こった今回の事件であっても、しらみ潰しに聞いていくのは得策とは言えなかった。眞弓に聞こえないほど小さく、汰朗は細い溜め息を吐く。汰朗が眞弓の家に来てから三か月が経ったが、その間こなした宗家からの依頼は数えるほどだ。眞弓はさして気にしていないようだったが、汰朗は焦りを感じていた。それが神の遣いとしての使命感ゆえか、あるいは他のご神犬とは異なることの負い目からなのかは、汰朗自身にもわからなかった。  汰朗がご神犬として覚醒したのは、今年の梅雨のことだった。犬はおろか、人やほかの動物の言葉が、ある日理解できるようになったのだ。代々、神の使いである犬と共生している狛山では、宗家に飼われる犬たちの中から人に近い意思と神通力を持ったご神犬が現れる。大抵は成犬になった頃に覚醒するのだが、汰朗が特殊なのは、彼が生まれてから六年と極めて遅いことと、未だ神通力の発現が見られないことだった。珍しいといえば、彼の場合、ご神犬と対を成す代理人についてもだ。ご神犬の出現とともに、宗家の当主である巫(かんなぎ)が分家の血筋から代理人を予見し任命するのだが、大抵は現行の宗家に近い傍系から選ばれる。何代も前に傍系となり、狛山とは名ばかりの一般家庭である眞弓が選ばれるのは異例であった。
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