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訪客と追手
ふたりはいくつかの道を折れ、塗装されたなだらかな坂道を下りて行った。石造りの門の前に、相島は待っていた。苦労を滲ませる白髪混じりの頭に、眼鏡越しでもわかる目尻の皺は人の良さを伺わせる。相島の背にした表札には「橋本」とあった。
「お越しいただきありがとうございます」
「いえ、そんな」
深々と頭を下げられる相島に、眞弓も畏まって頭を下げる。つられて引き上がったスカートの丈が危うく、汰朗は視線を逸らした。
「ご無沙汰しております。おふたりとも、お元気そうでなによりです」
「お蔭さまで。敬子さんはお元気ですか?」
「私もここ数日会えてはいないのですが」
相島は前置きをして、「なんでも、神域に熊が出たそうで。見張り番の手当てや、熊の追跡やらで宗家に泊まり込みなのですよ」と微笑みながら眉根を寄せて言った。
敬子とは、相島の妻であり、狛山家の別のご神犬の代理人の一人ある。彼女は一族専属の獣医も兼任していて、宗家の建つ山の動物の管理においては中心的な役割を担っている。
狛山家は女系であり、代理人はそれ以外の者から丁重に扱われる。二回りは年上であろう相島が、眞弓に敬語を使うのは、そういった道理であった。もっとも、相島の柔和な性格上、相手が誰であっても横柄な態度をとることは考えにくいことではある。
相島に促されるまま中庭に進むと、年配の女性が一人、縁側に居るのが目に止まった。肘掛け椅子に腰を下ろしている。
「こちらが家主の橋本さんです。私は、訪問診療でこちらに伺っております」
「橋本千代(ちよ)と申します。先生には、本当に良くしていただいて」
橋本は、僅かに頭を垂れた。
「少し前に腰を悪くしてしまいまして。お犬様にお嬢さんを前に、こんな姿で失礼いたします。」
「お犬様」という町の人が呼ぶ尊称に未だに馴染めない汰朗は、自分を見つめる千代に視線を返しながら俄かに会釈した。人間同士の挨拶ではこれが一般的であるし、こちらが理解しているという意図がよく伝わると学んだからだった。
「ご依頼というのは、橋本さんが気にかけているという猫の事なのです」
また猫かと汰朗は判然としない違和感を覚えた。傍らに立つ眞弓も、汰朗に目配せをする。
「 ええ。私(わたくし)、以前、ツルコ という三毛猫を飼っておりまして。それは長く生きてくれたのですが、猫の寿命は人よりは遥かに短いもの。一昨年の暮れに先立たれてしまいました。ところが、二週間ほど前から、どこからかこの庭に三毛猫がやってくるようになったのです。見た目もツルコと似て、どこかずんぐりとしていて愛らしくて」
在りし日のツルコを思い浮かべたのか、千代の目元が緩んだ。
「ツルコちゃん、大切な家族なんですね」
眞弓が微笑むと、「ええ、とても大切な家族でした。主人が亡くなってからはふたりで生きてきましたから」と千代は笑った。
「話が逸れてしまいましたね。そんなツルコに似た猫が、先週からぱたりと姿を見せないのです。ご飯だけは用意して置いているのですが、見ていないうちに取ってしまうのか、いつの間にかお皿ごとなくなっていて。また見ぬうちに空になったものが元の場所に置いてあるのです。それが少しばかり寂しくて」
一頻り話すと、千代は、庭の片隅を指さした。石垣の壁が壊れており、その近くの茂みの中を、一匹の猫が飛び出していくところだった。
「汰朗!」
「任せろ」
汰朗は低く唸って、猫の後ろ姿を追いかけた。庭から道に飛び出すと、猫は山の方へと走っていく。汰朗は一目散に走りだす。ぬかるんで足場が悪いのか、猫は所々足を滑らせた。一方、汰朗は山育ちである。ぐんぐんと猫との距離を縮めていく。鼻先が猫のしっぽを掠め、それにかぶり着いった。ぎゃっと低い悲鳴を上げて、猫は転がる。上がった息を整えながら、はて、と汰朗は首を傾げた。猫は灰色の毛を纏っている。千代が話していたツルコとは似ても似つかない。猫が行こうとしたはるか先で、別の何かが速度を上げて角を曲がっていったところだった。
『何をしやがる』
灰色の猫は体勢を整えると、汰朗に向かって威嚇するように毛を逆立てて、別の何が走って行った方を横目で見た。
『せっかく張ってたのによお。見逃しちまったじゃねえか!』
「聞きたいことがある」
汰朗は灰猫の権幕に臆せずに尋ねた。
「あそこに近頃通っている三毛猫についてしらないか」
『だから! 今そいつを追ってたんだよ!』
なに、と汰朗は呟いてから、それはすまなかった、と言い添えた。
「汰朗、大丈夫?」
声の方へと振り返ると、眞弓が走りよってきた。猫は眞弓と汰朗を交互に見つめる。
『あ? お前、狛山のお犬様ってやつか?』
「いかにも」
汰朗は頷く。ややして、猫には頷く必要がなかったことに気づいた。
「この猫さんは?」
「三毛猫が来るのを待ち構えていたらしい」
『うげっ、お前、人間と会話できるのかよ』
猫は舌を出すと、心地悪そうに頻りに毛を繕った。
「詳しい話を聞いてくれない?」
「狛山の代理人が、詳しい話を教えて欲しいと言っている」
『俺は親分に若を探してくれと頼まれただけだ。知りたかったら親分に直接聞くんだな』
「この猫の親分が事情を知っているらしい」
「親分さんのところに案内してくれない?」
言葉が通じないにもかかわらず、眞弓はしゃがみ込むと、猫にお願いするように言った。
「案内してもらえないだろうか」
汰朗も頭を下げた。猫に伝わる動きとはわからないが。
『まあ、狛山の人間なら案内しても問題ないだろう。明日の昼過ぎに集会がある。来たけりゃ来ればいい』
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