街で生きるもの

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街で生きるもの

 翌日が土曜日であったことも幸いして、眞弓と汰朗は連れだって灰猫に指定された新興住宅街に向かった。汰朗にとって、遠目に見えるビルから新興住宅街の場所は把握していたが、それらが位置する下祇(しもぎ)の西まで実際に足を運ぶのは初めてのことだった。  神代町は、山間の扇状地に築かれた町である。地図上では、ちょうど扇を下にしたような形をしており、東西を山で挟まれている。町は大まかに三つの地区に分かれていて、真北を向いた扇頂部には狛山の分家の集落があり、ここを上祇(かみぎ)という。上祇より南にあり、畑と所々古い人家が建つ扇央部は中祇。中祇より南、つまり町全体の南部を下祇という。昔は水田の広がる地帯であった下祇だが、昭和の終わりごろに西側近くを県道が通ったことから、西部は新興住宅街として開発がされている。東部は昔の名残を残しながらも、田圃を生業とする者が減ったためか、手入れされていない土地が散見される。  眞弓の家のある上祇の東部から、新興住宅街のある下祇の西部までは、神代町を北東から南西に移動する必要があった。汰朗は道中、上祇、中祇、下祇の地域ごとの特徴を目の当たりにする。変わりゆく景色を興味深く眺める汰朗の目を特に引いたのは、下祇の住宅地から東に距離を置いて建っている立派な洋館だった。眞弓に聞くと、そこは下祇東部一帯を貸す地主の家であるという。  新興住宅街を東西に横切る商店街に着くと、灰猫に教えられた果物屋はすぐに見つけることが出来た。ふたりは果物屋と隣の洋服店の隙間にある道を通り抜けて、半ば朽ちた階段を上がっていく。灰猫の言う通り、そこには空き地があった。畳十畳はあろうかというスペースに、乱雑に木箱が置かれている。そのうちの一つに、昨日の灰猫が座って待っていた。灰猫は、眞弓と汰朗を見ると、みゃあご、と一声あげた。汰朗にも『みゃあご』としか聞こえなかったので、それは猫同士で使われる呼びかけのような言葉なのだろう。灰猫の声に呼応するように方々から猫の囁き声が聞こえ、草陰や置かれた木箱、コンテナの陰から、次々と野良猫が現れた。群れる猫たちに道を開けられるようにして現れたのは、鋭い銅色の瞳を持ったキジトラだった。キジトラは、悠々とした足取りで、空き地の中央に置かれた年季の入ったスツールへと進み、腰かけた。スツールの足元に、灰猫が歩み寄る。 『親分、客人です。狛山の代理人とお犬様でさ。若の事で話があるとかで』 『ほう』  キジトラの親分は、深い溜め息にも似た返答をして、眞弓と汰朗にやった目を眇めた。汰朗は一歩足を踏み出すと、親分に話しかけた。 「お初にお目にかかります。狛山家の代理人・狛山眞弓と、遣いの汰朗と申します。この度は、そちらでお探しの三毛猫・若殿についてお話を伺いたく参りました」 『こいつの言う若は、俺が育ててきた息子のことだ。二週間も前にここを出て行ったが』 「出て行った?」 「出て行ったって?」  汰朗がこぼした言葉を、眞弓が掬い取った。その様を見た親分は眞弓を一瞥し、『この娘は猫の言葉がわからないのか』と汰朗に問いかけた。 「狛山の獣医以外は、遣いの言葉以外はわかりません。通訳をする時間をいただけますでしょうか」  親分はふうと息を吐くと、「それには及ばない」と答えた。眞弓が驚いたように親分の方へと顔を向ける。汰朗は咄嗟に身構えた。 「長く生きているとな、人の言葉なんてわかるようになる。もちろん人にわかる言葉で話すことも。何もお前たちお犬様に限ったことじゃない」  親分はすっとしっぽを上げた。まるで残像が留まるかのように、それが二又に分かれる。猫又か、と汰朗は理解した。長く年を重ねた猫は、妖の類になるという。 「狛山なら、この住宅街の野良が、雌雄問わず皆去勢されているのは知っているか?」  汰朗は初耳だったが、眞弓は頷いた。 「元々ここは犬が守る土地だから、猫はいなかったのだけれど、新しく移り住む人によってもたらされたって。人口に比べて野良化した猫が増えてしまって、昔、総出で猫を捕まえたって聞いたわ」 「そのとおりだ、娘御」  親分は答えると、「かつては諍(いさか)いもあったが、今は全猫の合意のもと、新しくこの街にやってきたものには必ず手術が行われている」と続けた。 「その手術と若様にどんな関係が」 「あいつは、手術の日に行方をくらました。家族が欲しいと言って」  親分は一段と深い溜め息を吐いた。 「それから二週間、とんと姿を現さない。仕方がないから、街の外の我々が好まない地域にも仲間に足を運ばせて、通っているいくつかの場所を突き止めた。食事をくれる人間に頼った方が生きやすいというのは、どこの野良も心得ていることだ」と言い切ると、親分は一つ大きなあくびをして体を伸ばした。 「誰だって手術は嫌なんじゃないかしら。それで叶わなくなる思いがあったら余計に」  眞弓が呟いた。若に同情的なその言葉に、汰朗は話が拗(こじ)れないかとひやりとしたが、親分は興味深げに眞弓を見つめた。 「あの獣医とは、随分と気質の違う娘御だな。これは合意のもとだ。案ずることはない」  親分の言葉を聞いてもなお、眞弓は怪訝そうな視線を投げた。 「取られる食事の総量や、縄張りとして持てる場所は決まっているのだよ」と返す親分の声は、まるで聞き分けの悪い子を諭すように、穏やかで厳格だった。若を説得するときも、このような様子だったのかもしれないと、汰朗は思った。 「飼い猫が人間に生かされているとすれば、我々野良猫は街に生かされている。野生で生きるすべがないのなら、その街のルールに従って生きるしかないのだよ」  親分は、若が目撃された場所を案内するように灰猫に言いつけた。ふたりは灰猫に導かれながら、猫の集会所を後にした。
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