神術が解けるとき

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神術が解けるとき

 ペルシャ猫に教えられたまま、眞弓と汰朗は、洋館の前を通る道を、東へ東へと進んでいった。民家が減り、舗装された道が土の道になる頃には、陽がかげり、あたりにうっすらと闇が立ち込めはじめた。汰朗が振り返れば、太陽は西の山に沈んでいこうとするところだった。田圃からは鈴虫のリンリンと鳴く声が聞こえてくる。初秋に当たる今頃は、本来ならば稲穂も実りだすのであろうが、このあたりの田圃は手入れもされていない。道の両脇には背の高い雑草が生えそろっていた。この道もあまり車が通らないのか、徐々に凹凸が顕著になり、最初は自転車を漕いでいた眞弓も、ハンドルについた電池式のライトをつけて、押しながら歩くようになった。周囲は闇を増していく。前方からささやかに水の流れる音が聞こえてきたのは、あたりがすっかり暗くなるころだった。眞弓の自転車のライトが、水車小屋と、その後ろに見える回らない水車を照らし出した。水車小屋の傍らに大きな木が一本生えている。まださほど近づいていないというのに甘い匂いが汰朗の鼻にまとわりついた。柿の木だった。  実った柿や摘んだだけの柿はこれぼどの匂いを放っただろうかと、汰朗は思い返して脚を止めた。眞弓も「汰朗?」と問いかけて止まる。眞弓のライトは、変わらずに水車小屋と柿の木を照らしている。水車小屋の後ろの黒い闇が動いたような気がした。 「眞弓、自転車を捨てて、後ろにゆっくり下がれ」 「え?」 「熊だ」  眞弓も汰朗の視線の先へと目を向けた。暗がりにいたのは、一匹のツキノワグマの成体だった。酷く興奮しているようで、周囲の匂いを嗅いでは低いうなり声をあげている。汰朗は眞弓の前に出ると、「早く!」と短く吠えた。  眞弓は自転車を静かに道へと横たえ、音をたてないように後ろに下がったが、数歩歩いたところで止まってしまう。「ねえ、汰朗はどうするの」と汰朗の背後から囁き声がした。 「注意を引いて、隙を見て逃げる」 「そんな、捕まったら死んじゃうよ」  離れようとしない眞弓に汰朗は焦りを覚えたが、それも一瞬の出来事だった。熊が、向かってきたのだ。  汰朗は吠えながら熊へと駆け寄り、眞弓から注意を逸らすために道の向こう側へと進もうとした。咄嗟に汰朗を追いかけようとした熊だったが、眞弓の存在に気づくと、体の向きをそちらへと変えてしまう。声の限りに叫び、汰朗は熊の後ろ脚へと嚙みついた。熊は、汰朗を払いのけようと、体を丸め、牙をむけようともがく。熊の向こう側で硬直する眞弓と目が合った。その背後から、光が差したような気がした。次の瞬間、車のエンジン音と、クラクションが鳴り響き、光の向こう側から、犬が飛び出してきた。 ――止まりなさい。  脳髄に響くような声だった。汰朗は驚いて動きを止める。熊もまた、止まっていた。声の主は現れた犬、ご神犬のひとり、馨太郎(きょうたろう)だった。固まったように動かない熊から、汰朗は弾けるように離れる。バックドアの音に次いで、重い錠の開く音がして、今度は黒い小さな熊がヘッドライトの前に現れた。子熊は、固まったままの熊にすり寄る。 ――母子は、私についてくるように。  馨太郎は、通り過ぎざま汰朗に一瞥をして、森の中へと走っていった。熊と子熊は、追いかけるようにして、木立へと消えていく。  車の運転席から降りてきたのは、馨太郎の対である敬子だった。「怪我はないかい」とふたりに尋ね、頷いたのを確認すると、ずんずんと水車小屋へと進んでいった。ドアを開けようとする敬子に、眞弓が問いかけた。 「あの、どうしてここが」 「私に教えるように言ったろう。宗家から連絡があった。巫様に感謝することだね」  敬子の眉間の皺は怒りを湛えていた。敬子がドアを開けると、ふわりと生臭い匂いが汰朗の鼻先をかすめた。暗がりから、何か小さな生き物が動く音と、猫の鳴き声が聞こえる。 「車の中にある器具を取ってきておくれ。私はあの子たちの様子を見るから」  早口に告げると、ポケットからライトと手袋を取り出して、敬子は水車小屋へと消えていった。
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