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前編
予定より1週間早くパリから帰国したものの、我が家は留守だった。
ついに妻に愛想をつかされたと焦った私は、皺だらけのシャツを着替える間も惜しみ、アテもないのに海辺の別荘まで夜通し車を走らせた。
画壇の仲間や世間が私を「エキセントリックな奇人」と揶揄していることは、昔から自覚している。
清らかで繊細な我が妻にも、どれだけ苦労をさせてきたことか。
夜明けの海岸をのぞむ国道をひた走れば、丘の上に建つ煉瓦造りの別荘が見えてくる。
緩やかな坂道に向けハンドルを切るとすぐに、純白のバラがこぼれ咲く生垣の向こうで赤くきらめく、車の屋根に視界を刺された。
妻の車だ。
その横に停車し、別荘の離れ小屋の前に降り立つ。
私の数あるアトリエの1つ。2年ばかり訪れていないが、雑草もなく芝生の緑が清々しい。管理人がよく手入れをしてくれているおかげだ。
結婚に倦んだ妻の逃げ場が他でもない"ここ"だったことが、場違いな歓喜を私に与えた。
地元のデザイン学校に通っていた当時の妻が、絵のモデルのアルバイトとしてここを訪ねてきたのは、3年前のことだった。
そう、ここは、私と妻が初めて出会い、愛を育んだ場所なのだ。
今ここに妻がいるという事実に、妻の一途で健気な愛を実感した私は、異様なまでの多幸感を覚えている。
「いるのか、お前?」
返事を待たず、木製のドアを開け放った。
「まあ、あなた!」
クローゼットの扉の前にたたずむ妻は、呆然と私を見つめた。
優美な曲線とメリハリのきいた凹凸で生み出されたミルク色の裸身に、真紅のガウンをまとっている。
濡れたようにツヤ光る長い黒髪は、いつになく乱れ。柔らかな頬辺を片方おおい隠しており、無作為のアシンメトリーが、その美貌をいっそう引き立たせるのだ。
私に霊感を迸らせる、愛しき芸術の女神。永遠の伴侶。
冷え切った結婚生活をもう一度、熱く燃え滾らせたいと、痛切に思った。
なんなら、画家の生業を捨ててもいい。
芸術の女神への献身のために、芸術を捨てる……これほどの愛の表現があるだろうか?
我ながら、なんて素晴らしい思いつきだ!
私の衝動と行動は直結している。私が"エキセントリック"と呼ばれるのはそのせいだ。
ひとりでに私は、無頓着に床に置かれていた缶入りのテレピン油を寝台にブチまけ、ライターの火を放つや、妻の手を引き屋外に飛び出した。
私たちの目前で、木造の簡素な建物は、みるみる燃えあがった。
同時に、おぞましい咆哮と共に、屋根や壁がグシャグシャに崩れ落ちていく。
「なんてことするの、あなた!」
妻は、私の腕にすがって叫んだ。
紅蓮の化け物のように荒れ狂う炎が、黒目がちの瞳にユラユラ揺れる。
なんて美しく、愛おしい……。
お前のためなら、絵筆を折ることも惜しくない。
いいや、芸術すらも、お前と私の仲を阻む障壁にすぎない。
「私の魂は、お前だけのものだ。邪魔するものはすべて燃やし尽くそう」
この炎は、私の決意の証なのだ。
「……っ!」
感激のあまり妻は言葉を失い、夢中で私に抱きついた。
ほとばしる涙が、焦げるほどに熱く私の胸を湿らせた。
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