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後編
パリで個展を開いていた初老の画家が予定より早く帰国すると、郊外の屋敷は留守だった。
若い妻は、夫の奇矯な芸術家肌に辟易していた。
そこで、遠方にある夫のアトリエに足をのばしては、別荘の管理人たる美青年との逢瀬を楽しんでいた。
何も知らない夫だが、しかし、妙なカン働きに導かれ、海辺の大通りに車をひた走らせた。
夜明け頃、高級車は、防風林の中の細い坂道に入った。
丘の上の豪奢な別荘の少し手前にある離れの庭は、白いバラが盛りだ。
車をおりた夫は、瀟洒なアトリエのドアに続く踏み石に靴音を弾ませる。
妻は、クローゼットに背を向け立ちはだかり、開く玄関ドアをニラんでいた。
この場面で、クローゼットの中に息を殺している誰かがいるとすれば、丸裸の間男に他ならない。
古今東西、ありふれたセオリーだ。
知らぬは夫ばかりなり。
ベッドの乱れに気付いても、かつて自分の絵のヌードモデルとして妻をそこに初めて横たえたときの初心なトキメキが甦り、白髪頭のテッペンから桃色の湯気をたちのぼらせるアリサマ。
恋女房への激情的な愛しさで、頭のネジがフッ飛んだものか。
手近にあったテレピン油をシーツに残らずブチまけ火を付けたライターを放ると、妻の手を引いて外に飛び出す。
アトリエは、みるみる燃えあがった。
古い木材が焼け崩れる轟音で絶叫はカキ消され、崩落した屋根により、間男はクローゼットごとツブされた。
「なんてことするの、あなた!」
妻は、夫の腕をゆさぶり怒鳴った。
黒い瞳は、怯え震えていた。
夫は、狂気をはらんだ微笑みで、
「私の魂は、お前だけのものだ。邪魔するものはすべて燃やし尽くそう」
「……っ!」
絶望した妻は、ガウンの懐からパレットナイフを取り出し、夫に体当たりした。
鋭利な尖端を吸い込んだ夫の胸は、焦げるほど熱い血潮に濡れた。
オワリ
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