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あー。転職なー。
もうちょっとだけ、休憩ちゃんととれて、しつこい客がいなくて、部下をちゃんと見てくれる上司で、手取り高くて、残業なくて、体育会系の感じじゃないとこないかなー。
例えばこことか。うーん、いいけどなー。いいんだけど、また書類選考、SPI、面接、とかをやるのもなー。
スマホをいったん置いて、グラスに手を伸ばす。
ううー、最高。ここのアイスコーヒーの喉越したるや。
お気に入りの小説を、慎ましやかに広げる。
出社前の、朝7時40分。駅前のこのおしゃれなカフェで、コーヒーを片手に、読書。あえて、紙の本。ページを捲る音をこれみよがしに響かせながら、ロングヘアを耳にかけちゃったりして。
この毎朝のルーティーン。これが、これだけが、唯一の私の贅沢であり、あぁ、私ったら朝活しちゃう素敵OLなんだからっつって浸れる時間。
まぁ、実際は趣味で朝の一時間だけ丸の内OLごっこしてるだけで、バッグには、激務と節約のための自作おにぎりと、一番安いお茶っ葉の水出し麦茶の水筒が入ってるんだけどね。
パサッ。
何かが落ちた気配がして足元を見ると、薄い男性ものの財布が。
咄嗟に拾って、「あ、これ」と持ち主の男性に渡した。
「すいません、ありがとうございます」
小さく礼を言って財布を受け取った男性のその手から、逆に何かを渡された。
「え……」
男性はすっと去ってしまった。
手の中を見ると、この店の紙ナプキン。端正な字で何か書いてある。
えっやだ、まさか……?
『アンタを付け回してる男がいる。
なるべく自然に店を出ろ』
目を疑った。
え? 何?
思わずキョロキョロしそうになったが、『なるべく自然に』とあるせいで出来ない。
丸の内OLのままの姿勢で考える。
え、何? ナンパ?
これ、ナンパ?
ナンパにしては独特過ぎない?
逆にあの人がストーカーってパターンもある?
え、どうする? 無視?
え、え、でも、例えばさっきの人が実は張り込み中の警察とかで、この話が本当だとしたら従った方がいいよね?
え、え、どうしよ?
待ってさっきの人どんな人だっけ?
すごくすらっとした、おしゃれ眼鏡のイケメンだったな。
あの彼が警察の可能性あるのかな?
背中に銃でも突きつけられたみたいですっごい脇汗かいてきたんだけど。ちょ、いったん落ち着こ。『なるべく自然に』。
……今これを無視して、やっぱり本当だったじゃん、になるより、これに従って、やっぱりナンパだったじゃん、の方が事態としてはマシか。あの彼が私のストーカーだとしても白昼堂々何か出来るわけでもないよね。
とりあえず、すぐに110番出来るようにスマホを握り締めた。ご指示の通り、なるべく自然な感じで、この紙ナプキンをさっと小説の中に閉じてバッグにしまい、飲みかけのコーヒーを一気にくっと飲んで、店を出た。
右、いない。左、いない。
いない……。
え、いない?
何だったんだ? あの人どこ行った?
もう一度左右を見ながら、ひとまず会社方面へ歩を進めた時、グイっと誰かに腕を引っ張られて、建物の陰に身を隠された。
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