55 番外編3 犬も食わない話2

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55 番外編3 犬も食わない話2

 次の日、月曜日。昨日の曇天が嘘かのように空は晴れ、夏の訪れを期待させる天気だった。  けれど、幸人の心は重たかった。それはもう、身体と同じくらいに。 (……輝彦……調子に乗りすぎだ)  オフィスに、陽光が燦々と入ってきて目が痛い。寝不足の身体には刺激が強いな、と目を擦る。  あれから、輝彦は散々幸人の身体をもてあそんでくれた。限界を訴えても緩やかに責められ、あまつさえ悶える幸人を、かわいいと言って笑っていた顔を思い出し、顔が熱くなる。結果、すぐに必要な荷物を出し終わるのに深夜までかかってしまい、同棲して早々寝不足に陥った。  ダメだ、と霞みがちな視界をまばたきで誤魔化し、パソコンに視線を戻す。  幸人が勤めている会社は、雑貨屋の経営本部。地域に根ざした中小企業だが、アクセス、福利厚生がよかったのと、「お客様もお取引先も、笑顔に」の企業理念に惹かれて入社した。  幸人は総務部なので、直接客や取引先とやり取りすることはないけれど、企業理念の一端を担っていると思うと仕事も楽しい。 「有栖川(ありすがわ)、寝不足?」  目頭を押さえていると不意に声を掛けられ、その人物を見上げる。そこには笑顔の同期、若菜(わかな)がいた。輝彦ほどの派手さはないけれど、爽やか好青年を地でいく彼は、営業部だ。  幸人は苦笑する。 「ちょっとね……やることがあって」  嘘ではないよな、と思いながら幸人は言う。若菜は質問をしておいて興味がなくなったのか、「そっか。それよりさ」と話を続けてきた。 「今日の夜、同期でメシ食いに行こうってなったんだけど、有栖川も来る?」 「え、……うん、行く」  断る理由もないので受けると、彼はまた笑った。この屈託ない笑顔は確かに営業向きだよな、と幸人は思い、彼がなぜ総務部に来たのか尋ねた。 「社用車借りに来た」 「そっか。じゃあこれ、記入して」  おう、と社用車管理表を幸人から受け取った若菜は、少し考えて辺りを見回し、顔を寄せて小声で尋ねてくる。 「……もしかして昨日はデートだった?」 「え……っ?」  幸人は思わず大きく反応してしまい、それからしまった、と思った。若菜を見ると、案の定ニヤニヤと笑っている。 「やっぱり。相手はいると思ったんだよね」 「え、いや、その……」  幸人は狼狽えた。いるにはいるけれど、それが同性で、パートナーだとは、とてもじゃないけれど言えない。確かに若菜は同期の中では仲がいいけれど、そこまで大っぴらに話せる間柄ではないからだ。 「あー、若菜さん。有栖川さんをいじめないでくれますかー?」  横から助けてくれたのは同期の女子社員、中野だ。彼女は高校を卒業して入社したため年下だが、年上の若菜や幸人にも、物怖じしないで話してくれる。同期の中ではよくこの中野と若菜が中心となり、親睦会などのイベントを計画してくれていた。 「有栖川さんは若菜さんと違って繊細なんです。とっとと仕事行ってください」 「おー、怖いね。……じゃ、有栖川、夜にな」 「行ってらっしゃい」  行ってきます! と大声で総務部を出ていった若菜。幸人はその後ろ姿を見て、あることに気が付いた。若菜の手から出ている赤い糸が、誰かに引っ張られるように漂っていたのだ。 (誰だろう?)  その前に、若菜に好きな人なんていたっけ? と思い返す。けれど、そんなことがあれば自分も覚えているだろうし、と糸が向かっていた方向に視線を送った。 (あ……)  その先には、中野がいた。幸人は、若菜が中野を意識する瞬間に立ち会ってしまったのだ。思わず顔がニヤけてしまい、慌てて手で口元を隠す。 (若菜は、軽口を叩きながら何でも言い合える子が好きなのかな?)  自分の両親に似ているな、とさらにほっこりする。こんな瞬間に立ち会えるなんて幸せだ、と思っていると、中野から声を掛けられた。 「……もしかして、本当にデートだったんです?」 「えっ? いや……っ」  どうやらニヤニヤしていたのを見られていたらしい。慌てて否定するけれど、中野は幸人が思い出し笑いをしたと思ったらしい。 「夜ご飯の時にその辺り、聞かせてください」  そう言ってニッコリ笑った彼女は、書類を持って総務部を出て行ってしまった。……最後の笑顔が怖い。  根掘り葉掘り聞かれませんように、と願いながら意識を切り替えると、スマホが震える。こっそり画面を見てみると、輝彦からだった。 【今日早く帰れそうだから、夜は外で一緒に食べない?】  残念、と幸人は苦笑する。今しがた誘われてオーケーしてしまったので、タイミングが合わなかったな、と断りの返信をした。 (もうこれからは、帰ってからも一緒なのに)  それなのに、一緒にいられなくて残念だと思ってしまう。付き合い始めより、より強い感情で輝彦と繋がっている自覚があるから、それも嬉しく感じた。情愛って尽きることはないのかな、なんて恥ずかしいことも考えてしまう。 (……浮かれてるな)  普段考えないことを考えているのが、その証拠だ。輝彦も、昨日はかなりしつこかったから、彼もいつも通りじゃなかったのかもしれない。 (……仕事しよ)  このままでは無限に妄想して百面相する羽目になる。そう思った幸人は短く息を吐いて、今度こそパソコンに向かった。
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