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10 人間観察
幸人のバイトは、閑古鳥が鳴く古本屋だ。
何せ一日いても人が来ない。母親のツテで紹介してもらったバイトだけれど、店主の通院がある時に入っている。母と店主の繋がりも気になるけれど、これで時給ももらえるのだから、店主の懐具合も気になる。
あれから、何事もなく輝彦の家から帰ることができた。思えば軽率な行動だったなと思う。彼の好意が嫌じゃないとはいえ、誕生日に自分に好意を寄せてるひとと出かけるのはよかったのだろうか? と内省した。ともあれ、何もなかったのだからいいのかな、と小さくため息をつく。
幸人はレジカウンターの椅子に座り、店内を見渡した。狭い店内は天井まである本棚が並んでいて、通路は人ひとり通れるかどうかと思うほど狭い。地震が起きたら大変だな、と思うけれど、天井までみっちり本棚があるので、被害があるとすれば本が棚から落ちるくらいか。いや、もしかしたら建物自体が倒壊する可能性が高いかもしれない。
そんな本棚に並んでいる本も、幸人にはさっぱり分からない洋書や、漢文が並んだものもある。漫画や雑誌といったものはなく、黄ばんだ表紙や角が少し削れたものもあり、古い紙やインク独特の匂いに囲まれていると、何だか違う世界に来たようで楽しい。
幸人はここの店番をしながら、課題をやるのがルーティンとなっていた。静かなので集中できて勉強も捗る。
大学の講義でどうしても入れない時は、店を閉めるか店主の娘が出ているらしい。らしいというのは、幸人はその娘に会ったことがないし、連絡は母を通して来るからだ。
おかげで時間が空いた時に入っているだけで、遊ぶこともしない幸人の懐はそこそこ潤っている。収入を少し、生活費にと母に申し出たら、「将来のために取っておきなさい」と突き返された。
「ふー……」
しかし、いくら客が来なくて課題をやり放題とはいえ、何時間も同じ姿勢では疲れてしまう。集中が途切れたのを機に、幸人は椅子に座ったまま伸びをした。
すると、珍しく店のドアが開く。ドアに付いたベルが、チリンチリン、と軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
客は小太りの男性だ。狭い通路をカニ歩きで幸人のいるレジまで来て、カウンターに紙袋を置く。
「……買取りですか? あいにく店長が不在なので、後日改めて……」
「金にならないならそれでいい。処分してくれ」
幸人の話をろくに聞かず、早口で言う男はイライラしているようだ。紙袋の中身を見ると雑誌で、男性アイドルが表紙を飾っている。
「……すみません、うちは雑誌を買取りしてないんです」
「だから、処分してくれと言ってるだろ」
処分するなら自分ですればいいのに、と思うけれど、それは言わないでおく。すると、男のジーパンから大音量で音楽が流れ出した。
男は舌打ちすると、ポケットからスマホを取り出して通話を始める。
「お前、また黙ってアイドルのグッズ集めてただろ」
穏やかじゃない内容に、幸人は早く帰ってくれないかな、と思う。スマホを持った男の小指には、蝶結びになった糸が垂れていた。その結び目が解けかけるのを見て、視線を逸らす。
電話の相手は女性のようだ。甲高い声が聞こえた。何を言っているかは分からないけれど、怒っているのは間違いない。
「生活費どうしたんだよ? 借金まで作ってすることか? ああ?」
もうしないって言っただろ、と言う男に、相手の女性はまた何か怒鳴っているようだった。幸人はそばにあった椅子に再び座り、教科書を開いて会話を聞かないようにする。
けれど店内に二人きり。近くで怒鳴られたら聞きたくなくても聞こえてしまう。
「そんなにそのアイドルが好きならそいつと結婚しろ。俺はもう知らん」
そう言って、「ふん」と通話を切った男は紙袋を持った。
「騒いで悪かった。少しでも金になるところにこれを売らないと、俺の気が済まない」
「……いえ、大丈夫です」
店に来た時から怒っていたのは、電話をしていた女性に腹が立っていたからなんだな、と幸人は苦笑する。電話をしていた女性は大丈夫だろうか、と思って男性の小指を見る。
カウンター上の紙袋に添えられた男性の手の糸は、切れていた。
◇◇
その男が去ったあとは、いつも通り平和な店番だった。夕方に帰ってきた店主に挨拶をして店を出ると、幸人はそのまままっすぐ人通りの多い場所へ行き、ファーストフード店に入る。
あえて外が見える窓側の席を取り、買ったホットキャラメルラテをふーふーと冷ましながら飲んだ。
窓の外は沢山のひとがいる。そして手を繋いだ男女や、ひとの小指の先を眺めて微笑んだ。
世の中には、幸せなひとがたくさんいる。そう思うだけで幸人は楽しいのだ。
この能力が自分だけに備わったものだと気付いた時、母は言ったのだ。「二人が幸せになれる瞬間を見られるなんて素敵ね」と。だから幸人はひとの往来を見て、恋人と結ばれているひとたちを眺めるのが習慣になった。人間観察もその延長でするようになった。
できればその関係が、未来永劫続きますように、と願い、恋愛相談を受けたらできる限り応えてきた。ひとが幸せになるのはとてもいいことだ、と幸人は信じている。そしてその手伝いができたらそれもまた、幸人の幸せだと思っている。
(……よし)
幸せを補充できた、と幸人はキャラメルラテを飲み干す。嫌なこと、不安なことがあった時は、こうして往来を眺めて、結ばれた赤い糸を見るのが幸人の楽しみだった。これで明日も頑張れる、名も知らないひとたちありがとう、と感謝して、ファーストフード店をあとにした。
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