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「ユキちゃん」
ユキは、ぷいとそっぽを向いた。白くつややかな背はいつも通りだけれど、背中がなんだか不機嫌そう。
「ユーキちゃーん。ねえ、どうかしたのかな?」
今度は、できる限り優しく、語りかけてみる。猫を呼ぶのに――いや、ユキがほんとうに猫かどうか、未だ僕は知らないのだけれど――人間の方が猫なで声をするのはいかがなものかと思う。それでも、僕の媚びた態度に、ユキはちらりとこちらに視線をくれた。
「今日はずいぶんにぎやかな顔をしてるね」
ユキの顔は、虹色に輝いていた。比喩でもなんでもない、まるで夜の町のネオンのようなレインボーカラーだ。
「僕、またやっちゃったかあ」
しかめっ面のユキが、なーお、と低くうなり声をあげた。
外見はほとんど猫のように見えるユキ。便宜的に『猫』ということで話を進めるけれど、まだ両手のひらに乗るくらい、ほんの子猫の頃に僕に拾われた彼女。金眼に真っ白いからだの通り『雪』と名付けた。猫じゃらしにはノってくれるし、体より小さいような空き箱にみっちみちに入るのも好き。キャットフードも食べるし、ちゅ~るも好きだ。
けれど信じられないかもしれないが、ユキはそれらの何よりも『活字』が好きなのだ。本を読むのが好きとか比喩的な話ではなく、文字通りに活字を『食べる』。
きっとユキは猫ではないのだろうと、僕は思っている。あやかしと怪異とか、いってしまえば化け猫とかそういう類いのもの。一緒に暮らしていて、字を食べる以外に化け物らしいところはないから、猫として扱ってはいるけれど。
ユキの同居人たる僕は、しがないフリーのライターだ。文豪と言うわけではないけれど、それでも字を書いて生計を立てている僕に拾われたのは、ユキにとっては幸運だっただろう。食うものには困らない生活をさせてあげられているのだから。
ただし、ユキは摂取した文章により、たまに今日のように不具合を起こすことがある。さて、今回の原因は果たして――?
がさごそと音を立てながら、僕は床に散らばった原稿の整理を進める。こっちは前の原稿の試し刷りだから捨てても大丈夫。これはおとといプリントしたまま放置していたやつだ。早くチェックしないと。
ユキはお気に入りのダンボール箱の中に収まり、ふて寝を決め込んでいる。皺の寄った額は相変わらずネオンカラーのままだ。そんな顔色になってしまうような文章を書いた記憶は、全くないのだが。
「ユキちゃんが食べたの、これ? それともこっち?」
「なーお」
「じゃあ、こっちかな?」
「にゃあ」
ユキの声に導かれてたどり着いたのは、仕事とは関係なく僕が趣味で執筆したもの――いわゆる同人小説だった。ジャンルは言えないけれど、一応最後まで書き上げて、推敲しようとプリンターで印刷して、そのままになっていたもの。記憶にあるよりも全体的に字の色が薄くなっているのは、ユキが『食べた』からだろう。
そのまま文章を辿っていくと、不意に色濃いままの言葉と出会った。つまりここだけがユキのお口には会わなかった、ということになる。人で例えるなら、ちょっと齧ってはみたけれど食べ残してしまった、みたいな感覚か。
「ああ、これはひどいな」
そこにあったのは『顔がhotel』という、なんともしまらない誤字だった。言うまでもなく、正解はもちろん『顔が火照る』である。どうりで、白いはずの毛がいかがわしいホテルのネオンサイン風に染まっているわけだ。いや、そんな色っぽい話を書いていたつもりはなくて、すべては誤字のせいなのだけれど。
そう、どうやらユキは、誤字に過敏に反応する体質らしい。毛皮に色がついたりするのはまだ軽いほうだ。背中に『射通し稲子』と文字が浮き出ていたときは何事かと思ったし(『愛おしい猫』と書きたかったのだ)、ある日突然ユキの鼻先が長く伸びてしまったときには、原稿に『猫尖る』とあった――『寝転がる』の間違いである。そのほとんどは、僕が悪いのだけれど。
いまだ不貞腐れて、みっちりと箱に詰まりっぱなしのユキ。そんなときお口直しに読む本は、だいたい決まっている。僕は、文庫本をちらつかせながらユキを誘った。
「ごめんね。……ほら、おいで。ユキちゃんの好きな『春期限定いちごタルト事件』、あげるから。それとも『和菓子のアン』のほうがいいかな?」
ユキは「にゃーお」と鳴いて、のそりと箱から出てきた。
スイーツの名を冠した本が好きだなんてできすぎているけれど、ユキは特にこのあたりの本がお気に入りなのだ。今度は僕の胡坐にすっぽりと収まり、小市民二人の姿が描かれた表紙に顔をすりすりと寄せる。今日のところは米澤穂信で手を打ってあげましょう、そんなところか。
僕がページを捲るたび、ぺろぺろ、夢中で字を舐めるユキ。
「ご機嫌、直った?」
ユキは、満足げに「にゃあ」と答える。ようやく取り戻した白い毛並みが、滑らかに波打っていた。
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