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*2 サブレとジャムとよろこびと(後編)
午後は近所の主婦(主夫)の人が買いにきたり、仕事帰りの人が買いにきたりで割と忙しい。補充もどんどんしていくし、明日以降の予約も入ったりする。
「すみませーん、誕生日ケーキ予約したいんですけど」
「はい、じゃあ、ケーキの種類は生クリームのとチョコレートのと、どちらになさいますか?」
「潤くん、ユキナいちご好きかな?」
「うん、好きだと思うよ」
「じゃあ、クリームのにする!」
顔なじみの近所の子が家族のバースデーケーキを予約に来たので、メッセージプレートに書く言葉や、おまけで付けるろうそくの数なんかを相談する。
こんな風に、子どもとか若いお客さんだと男女関係なく来てくれる感じなんだけど、やっぱり熊井さんぐらいの年代の人がひとりで来るのは珍しい。しかも定期的に。
だから、あの人は相当に甘い物好きなのかもしれない……そんなことを考えながら、俺はバースデーケーキの予約票を小さなお客さんに手渡した。
その後はお使い物だという焼き菓子の詰め合わせを包んだり、予約されていたケーキのプレートの仕上げをして手渡したり、こまごま色々とある。
「さっきのシャインマスカットだけどさ、タルトとデコレーションケーキ、どっちがウケるんだろうな」
客足が途絶えた午後のある時、父さんがそんなことを厨房から訊ねてきた。
ネットで検索してみた感じだと、タルトとデコレーションケーキ半々な感じではある。
そう父さんに伝えると、「お前はどっちがいいと思う?」と、聞かれた。
シャインマスカットはピンキリの品質とは言え、通常のぶどうより若干仕入れ値が高い気がする。タルトに使うとなるとそれなりに量がいるから……やっぱりデコレーションケーキだろうか。
そんなことを父さんと話していると、店の入り口の自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
慌てて振り向いて、俺はちょっと驚いた。入ってきたのが熊井さんだったからだ。
市役所勤めとは言え、いまの時間はちょっと退勤するには早いんじゃないか? と、思いながら彼が店内の焼き菓子の棚を眺めているのを横目にしながら、ガラスケースを拭くふりをしていた。
熊井さんがいま見ている棚の商品はほぼ俺が作ったものばかりだ。マドレーヌにクッキー、フィナンシェなど定番のものが並んでいる。
その内の一つを手に取って、熊井さんはレジの方へ歩いて来た。
「これをお願いします」
「はい、ありがとうございます。サブレですね」
サブレはバターと小麦粉の割合が一対一で、実はクッキーよりもバターの割合が高い。そしてウチのはチーズケーキと同じ酪農家に頼んで取り寄せているバターなので新鮮なものを使っていて、そして季節の果物のジャムを挟んでいる。もちろんジャムに使う果物も地元の農家から取り寄せているものだ。
一応これも、地元応援ということを意識している。
「ご自宅用ですか? 贈り物ですか?」
「自宅用で」
「珍しいですね、チーズケーキじゃないものお買い求めになるって」
べつに俺はみのりのようにセールストークが得意なわけではないし、愛想がいいわけでもない。
でも、いつも決まってベイクドチーズケーキを二つ買って行く常連客がサブレを買って行くとなるとつい気になってしまうじゃないか。
思わず口をついて出た言葉に自分でも軽く驚きながらも、俺は熊井さんの反応を待っていた。
当の熊井さんは、突然俺が話しかけてきたものだからやはり驚いているようだったけれど、だからと言って気分を害するほど気難しいわけではないようで、すぐにふっとやわらかく微笑んだ。
「ええ、同僚から地元の食材を使った美味しいお菓子があると聞いたもので。ちょうど休憩なので買いに来ました」
「そうでしたか、ありがとうございます。そうなんです、このサブレのバターとジャムの材料は日井牧場と農園のものなんです」
「それは食べるのが楽しみだ」
そう微笑む熊井さんの笑顔をまともに見るのは、初めてな気がした。いつもの仏頂面とはいかないまでも、決してにこやかとは言えない表情からは想像がつかないほどやわらかでやさしい笑みだ。
伯父に似たやわらかいそれは、俺の心の奥を小さく抓るように突いてきたけれど、気付かないふりをした。
サブレに使われているジャムもまたそれだけで瓶詰にして販売しているので、その宣伝もしたら熊井さんはそのジャムも買って行った。ちなみにジャムはイチゴのジャムだ。
「……あ、全部俺が作ったやつだった」
熊井さんが店を出て行ったあと、ふと気づいたことを呟き、ふつふつと嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
ベイクドチーズケーキだって俺が得意とするケーキの一つだから俺が作ったやつに違いはないんだけれど、特にジャムは企画発案も材料の仕入れもすべて俺がひとりでやっているものだから、余計に嬉しく思えたのかもしれない。
しかも、さっきなんていつもにない会話まで交わしてしまったし、その上サブレは熊井さんの同僚からのおススメの様になっているようだ。
それを、熊井さんは食べるのが楽しみだと言ってくれた。それがなによりも俺を嬉しくさせている。
「どうした、ニヤニヤして」
「んー……いまさ、俺のジャムが売れたんだよ」
「おおそうか、よかったな」
ところでシャインマスカットだけどさ……と、父さんは俺がニヤいているのもさして気にもせずさっきの話の続きを始める。
密かにだけど良いなと思っている相手に自分が手掛けたものを手に取ってもらえる、その喜びが俺をここに立たせ続けているのかもしれない。少なくとも、惰性で働いていると思っている俺にとってのここ最近の仕事をしていく上でのささやかな糧であることに間違いはない。
新しいケーキの話を父さんとしながら、俺は熊井さんが俺の作ったサブレとジャムを食べてくれるところを想像していた。
その日はそれから閉店まで機嫌よく仕事ができたと思う。閉店作業の片付けも翌日への仕込みも、いつもより手際よくできた気さえする。
だからなのか閉店後にほんの少し時間ができたので、久しぶりに夜のランニングに出ることにした。
シャッターの降りた商店街の通りを抜け、住宅街の中をゆっくり駆け抜ける。夜風が疲れか身体に心地よく感じられるのは、やっぱり今日仕事で褒められたりしたからだろうか。
住宅街を抜けた先には日井川があり、遠く海辺の工場の灯りを川面に映して煌めいている。
伯父が生前、仕事の後にこうしてランニングしていたのに俺もついていくことがあって、たまにこの景色を眺めていたことがあった。静かで、きれいで、少しだけ寂しい。
「今日、お客さんが俺のジャム買ってくれたよ」
暗がりに、誰に言うでもなく呟いた独り言に、夜風の中で伯父がうなずいてくれているような気がした。
ただの幻想であの人を感じながらも、現実に俺を褒めてくれた彼を想う。共通しているのは、決して触れられない存在ということ。
夢でもいいから彼とこの景色を並んで眺めたい――そう、思ったのが伯父のことなのか、サブレを褒めてくれたあの人のことなのか、それは誰にも言えない秘密だ。
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