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*3 知ってしまった彼のこと(前編)
それから十日ほどした雨の降る日、熊井さんが来店した。あと十分もすれば閉店という頃で、熊井さんは小走りでやって来た。
「いらっしゃいませぇ。わあ、結構降ってるんですね。タオル使います?」
「ああ、いえ、おかまいなく……」
「そんな、ウチに来てくださったのに風邪ひかれちゃったら申し訳ないですから。ちょっと待ってくださいね」
どうやら外は思っている以上に本降りらしく、傘をさしていたはずなのに熊井さんの肩は少し濡れている。
みのりが気を利かせてきれいなタオルを出してきて、そして何故か俺に渡してくる。
なんで? と問うように視線を向けると、みのりは、視線だけで熊井さんの方を指して持って行きなよ、と言う。
そういう気の使い方でどうこうなれるわけがないのに、と思いつつも、拒む理由もないので熊井さんの許へ歩み寄っていく。
「あの……これ、よかったら」
「ああ、すみません。ありがとうございます、助かります」
俺が差し出したタオルを、熊井さんは恐縮したように苦笑して受け取り、濡れた頭や肩を拭き始めた。
通りの雨はたしかに結構激しくて、風も少しあるようだ。
「降ってますね、結構」
「夜からと予報では言っていたので帰る頃までは大丈夫かと思っていたんですけどね」
タオルで乱雑に拭ってぼさぼさになったグレーヘアーと、この前見せたようなふわりとやさしい微笑みに、俺の胸が鳴る。
伯父に似ている、だけど、伯父よりももっと深みのある表情は俺の胸の奥のくすぶる感情をつつく。
熊井さんはすぐにまたいつもの何の感情も読み取れない顔に戻ったのだけれど、心なしか、通りを眺めている横顔に先程の微笑みの名残があるようで、見つめたままになってしまう。
「お兄ちゃん、熊井さんにケーキ選んでいただいたら?」
「え、あ、ああ……。熊井さん、今日は何にされますか?」
みのりの声にハッと我に返り、俺は不躾なほど見つめていたことを掻き消すように熊井さんに言葉をかける。
熊井さんもまた眺めていた通りから店内に目線を移し、ゆっくりとガラスケースに歩み寄っていく。
今日はもう閉店間際で残っているケーキの種類はそんなにないけれど、熊井さんがいつも買うベイクドチーズケーキはちゃんと二つ残っている。
あごの下に手を当てて、前かがみになってケーキのひとつひとつをじっくり眺めながらも、熊井さんはいつものようにこう言った。
「では、ベイクドチーズケーキを二つお願いします」
「はい、ありがとうございます」
小さな白い箱にケースから取り出したベイクドチーズケーキを二つそっと丁寧に詰め、三十分は必ずもつ保冷材も一緒に梱包する。
(……あれ? 今日って、十七日だっけ?)
毎月この日、熊井さんは必ずこのケーキを二つ買って行く。来店したら必ずと言うわけではないけれど、十七日は必ずなんだ。
普段もケーキは二つ買っていることがほとんどだから、やっぱりこれって――
「ケーキはご家族と召し上がるんですか?」
俺が包んだケーキ入りの箱を受け取ったみのりが、熊井さんにガラスケース越しに手渡しながら訊ねている。俺ならためらって踏み込めないことをみのりはいとも簡単にやってのける。
訊ねられた熊井さんは驚きとも何ともつかない表情を一瞬し、そしてやはりほとんど無表情のままでこう答えた。
「ええ、まあ、そうですね」
それから、みのりが熊井さんとどういう会話をしていたのかは知らない。だって俺はその言葉を聞いた瞬間厨房に引っ込んだからだ。
なんとなく俺はそれ以上の会話の内容が、もし熊井さんの家族――例えば奥さんだとか、子どもだとかの話になってしまったら、どんな顔をして彼と向き合ったらいいかわからないし、もし、その言葉に対して嫌悪感の露わな表情をうっかりしてしまっていたら……そう思うと、その場にいることができなかった。
頭のどこかではわかっていたはずなのに、実際本人の口から聞いてしまうと、こんなにも現実を受け入れることが難しいだなんて。
気を紛らわせるために俺は今日使った道具の片づけを始めたけれど、流れていくクリームや生地の素のペーストなんかを眺めていると、まるで整理のついていない自分の感情が、冷静でいろという考えに強制的に押し流されていくみたいな気がした。
俺と彼は、あくまで店員と客でしかない。俺が知っているのは彼の名前と連絡先――それも職場の、だ。どこの部署なのかもよく知らないし、彼に家族がいるだとか、どんな家族関係なのかだとか、全く知らない。何故なら俺と彼は、知り合いとすら呼べないほど薄い関係なのだから。
泣くようなことじゃないけれど、かと言って割り切ることもできない中途半端さがかえってフラストレーションをあおる。
調理器具はぴかぴかになったけれど、俺の気持ちはくすんだままだった。
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