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「…驚かないんだ」
「いんや? 充分驚いてるぜ。お前さん、女だったんだな」
「そこ? 動物が喋ってんのに、反応薄いな?!」
毛を逆立てて怒る漆黒の狼を笑いながら軽くあしらい、男は事態の核心を突いた。
「…なあお前さん、けものびとって知ってるか」
薄暗い室内で男の双眸が光った気がして、私は一瞬呆気にとられる。
まさか、人間の目が闇の中で光ることなどあるだろうか? 彼の方が、よほど狼のようだ。
「…けものびとを知ってるの!? いや……でも、人間がどうして?」
男の容姿は、どう見ても人間だ。獣の気配も匂いもしない。なのに、けものびとを知っているという。
まさか自分が知らないだけで、祖母の暮らしていた近隣にもその話が伝わっていたのだろうか?
「気になるか?」
「う、うん」
「けどその前に人型に戻ってくれよ。俺ァお前さんの顔を知らねえんだ」
…肩を竦めて云う彼に、この時初めて親しみを覚えた。
「わかった、少し待って」
(素顔を見たいなんて、変わったヤツ)
変化時に破らないようにするため脱いだ服は予め別の場所に隠している。
狼の姿で隠し場所に戻り、辺りを確認してから人に戻り手早く着替えた。
「こんなもんかな」
伸ばしっぱなしの黒髪を手櫛で梳き、後ろに払うと腰辺りで尻尾のように揺れる。
古びた姿見に写る自分は、相変わらず見知らぬ女の顔だ。
あの家で閉じ籠っていた時代は自分の容姿を見る必要がなかった。意味なんて勿論なかったし、美醜なんてもっと関係がなかった。
然したる感慨もなく鏡を見ていると、微かに障子がノックされる。
「なに…」
「入っていいか?」
置いてきた青年だった。待ちきれずに追ってきた、というところだろうか。
別に、素顔なんて隠すものでもない。
「入って」
姿見の前に立ったまま応えると、背後で障子が開く音がする。
「なに? ひとの顔を見て固まるなんて…随分じゃない」
橙色の夕映えの部屋で、青年は驚いた表情のままやや暫く硬直していた。
目の前の彼女が、あまりにも【けものびと】の始祖に似過ぎていたのだ。
「……驚いた。お前さんえらく別嬪だな…」
やはり、ここで張っていて正解だった。
なにかに呼ばれている気がして、主に無理をいって(側近の狐野郎がかなり鬱陶しかったが)回廊を繋いでもらった甲斐があった。
「そうなの? 誰もそんなこと言わないから、知らないけど…」
なんの衒いもない、真っ直ぐな目は金色。人狼特有の色だ。
「お前さん、名前は?」
「彩乃だけど。…お兄さんの名前は?」
「銀嶺だ。さっきは俺が、なぜけものびとを知っているか、って話だったよな」
彩乃が息を呑むのを見計らい、銀嶺は更に畳み掛ける。
これは賭けだ。
彼女の反応次第で展開が変わる。
「俺はとある御方の元で資料整理を勤めているんだが…ある時、書庫の奥でけものびとが書いた日記を見つけたんだ」
「日記は、どんな内容なの?」
彩乃は、かつて祖母に聞かされた伝記を思い出していた。
「けものびとの始祖にあたる男の日記だ。人間の女に命を救われ、血縁をなした。けれど生まれたのは単なる人間ばかり。人間の妻が死んで、彼は人の世界から姿を消した…という話だな」
「驚いた。まったく同じ話を、祖母から口伝で聞いたことがある…」
人間の娘と異形の青年が紡ぎ生きた、夢物語のように幸福で悲しい物語。
しかし、彼自身の物語が終わったわけではなかったのだ。
種は、長い冬を越えて世界に1つだけ芽生えた。
「人の世界で発顕した奇跡の存在がお前、彩乃だと言えば説明はつくだろうか…」
「銀嶺さん?」
「銀嶺でいい」
話しながら、銀嶺の姿が少しずつ崩れていった。
白髪がなびいて耳らしくなり、やがて白い狼の立ち耳に変わる。
そして遂に、鼻先が長く伸びて獣のそれに変化を遂げた。
「…うそ…みたい。同じ人に会えるなんて、思わなかった」
無意識に、彩乃もつられて耳が尖り狼の顔になっていく。
「騙すような格好になってすまない。巧く接触できる間を図っていたんだ」
15才の冬の夜に3日3晩の地獄に耐え抜いて覚醒したけれど、引き換えに肉親らに居場所を追われ、過去に糸を引かれるように祖母の家を選んで、彼に出逢った。
これも、なにかの因果だろうか。
「一緒に行こう彩乃。お前は此方で生きるべきだ。始祖も、それを望んでると思う…」
「いいの? 私が選んでも…」
今までなら、選択すら許されなかった。
人であるべきだと、無理に自分を偽って苦しんだ。
けれどもう、身を縛る鎖はない。
「もちろんだ。共に行こう、この先もずっと、な」
「喜んで」
こんなに優しい体温を、私は知らなかった。
握った手は固く大きくて、くすぐったさが込み上げてつい頬が緩む。
まるでずっと悪夢を見ていて、ようやく目が醒めた気分だ。
現金だろうけれど、いまは苦渋も苦痛も遥か遠い記憶だった。
私はもう、彼と永遠にどこまでも、どこまでも自由に駆けてゆける。
それが私の中でようやく完結した、因果律。
不動な未来。
「行こうか」
「うん」
手に手をとった二人の影が、黄昏の翳りに溶け込む。
夕映えの残滓がすっかり消える頃、残されたのは時を忘れた廃屋と、静寂だけだった。
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