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奇跡的に地獄の三日三晩を堪えぬいた私は、それから運よく正常な生活を取り戻していた。
いつものように通学し、友人らとたわいもない話題で盛り上がり戯けあう。
それが自分の日常で、疑いのないものだった。
しかし学級当番を担当したとある雨の放課後、この日が私が人間として生きる最後の日になった。
♦
放課後。ちょうど掃除の当番だった私は、友人らを先に帰宅させ教室に一人だった。
雨音をBGMに、時計の秒針がチクチクと時間を刻む音しか聞こえない教室は少し不気味だ。
その日は朝から天気が悪かった。
夕方には雷雨になると予報士が言っていたのを思い出した私は、掃除を早めに切り上げることにした。
ころころと微かにぐずつく気配を聞きながらモップがけを終えた私は、教室の電気を消そうとスイッチを押す。
(これでよし。あとは帰り支度をするだけだ)
コートを羽織り、何気なく窓の外を眺めようとした瞬間……すさまじい雷鳴が轟き、視界を塗り潰す稲妻がさんざに明滅を繰り返す。
けれど、偶然とはいえ私は視てしまった。
激しい雷光のあとに一瞬だけ訪れる漆黒に染まった窓硝子に映りこむ…あきらかな異形の姿を!
「!?」
最初は、窓の向こうに誰かがいるのだと思った。
だがここが三階で、外に足場がないことに気づいて背筋にスッと冷たいものが走る。
異形は、仄暗い闇の底に青にも紫にもみえる深い瞳を湛えて静かに鏡面に佇んでいた。
(鮮やかな、紫の目!?)
中学生の制服を着た異形は頭だけが犬か狼のような獣の姿をしていたが、不思議にも恐怖を感じなかった。
私が口を押さえると、窓に映る狼人間も同じ仕種をする。
(見間違いじゃない、これは自分だ!)
これで私は、窓に映るものが自分自身であると理解した。
(どうしよう…。どうすればいい!? こんな姿、絶対に世間なんかに晒せないっ、考えろ、考えるんだ!!)
それから私は周囲との関係に終止符を打ち、手始めにこんな身になって通っても仕方がない学校はとりあえず辞めてきた。
その頃の自分には、人間だらけの外界に馴染めるだけの度量がなかったのだ。
訳は1つ。…もしも意に反して人を傷つけ、人目を集めてしまえば一貫の終わり。
あっという間に見世物にされ、最悪、研究材料に解剖されるかもしれない。
そんな、物騒極まりない顛末がただただ恐ろしかった。
外になんて出るもんか。誰にも会いたくなかったし、顔も見たくない。
だから私は、一日の大半を暗く締め切った自室に籠って過ごした。
だけど、籠っている理由が“もう1つ”ある。
…母親だ。
一言の相談もなく義務教育を放棄し、部屋に籠って以来…母親は部屋の扉越しに嫌がらせを始めた。
日がな一日中扉越しに居座り、陰気な溜息を吐いては罵詈雑言を吐き散らかす。
(こんな筈じゃなかったのに、)
(大事に育てた筈なのに、どうして!)
(お前なんか、生まなければよかった、)
むしろ、ウンザリしているのはこちらの方だ。
ぐちぐちネチネチを四六時中聞かされて、嫌悪を感じない生物がいたら見てみたいものだ。
母親は、表向きだけは引きこもりの娘を思いやる『いい母親』だが、彼女こそ私を心底嫌悪している。
暴言はまだいい。
食事に洗剤や殺虫剤が混入していたりするのは、“そこまでするか”と思わず閉口した。
しかも、嗅ぎとって残せば支離滅裂な金切り声をあげて扉を包丁で突きまくった。
とても正気の沙汰ではない。
だが、扉越しに向けられる悪意と殺意に敬意を表して、一度だけ獣の声で吼えて以来…母親は、扉の前で二度と恨み言を言わなくなった。
というのも、どうやら奴は寝込んだらしい。
まったく以て、いい気味だ。
そういえばまだ子供だった頃、田舎に暮らしていた祖母から「けものびと」という、人と獣の両端の容姿をもつ男の昔話を聞いたことがあった。
幼子に聞かせる話にしてはよくできたお伽噺だと思って聞いていたけれど、まさか自分自身で体現するなんて宿運とは皮肉なものだ。
噺に因れば…いつ、どの時代かは分からない。
銃にやられて怪我をしたけものびとの男を先祖の女が介抱し、周囲の目から隠れて暮らしたのが始まりだった。
程なくして二人は惹かれ合い、子供が生まれた。
しかし、けものびとの血脈は稀有なため遺伝的には弱く、産まれるのはどれも変哲ない人間ばかり。
獣になれたものはいない。
だから血は絶えたものと思われた。
人間の妻が死んだあと、けものびとの男は何処ともなく行方を眩ましてしまったそうだ。
死んだのか、山に帰ったのか……真相は分からないままだ。
けれど今、けものびとの血は私を見つけた。
これがどれだけ奇跡的なことで、絶望的なことか…。
虎視眈々と命を奪わんとする名ばかりの「肉親」の傍にいるよりも、血に従って生きる方が正しいのだろう
だから私は、肉親を捨てることを微塵も迷わずに即決した。
もう二度と、後ろなんて振り返るものか。
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