2話 標なき旅

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2話 標なき旅

憎くて仕方がない形だけの家族から、隠れ続けて5年。その間に、私は更なる変化を迎えていた。 もともと早熟な身体であったので、鏡に映る20歳を迎えた容姿に変化はない。 まあ、それは別にいいのだ。 5年の歳月をかけて力を貯めていた私は、遂に完全な獣に成れるようになった。 地獄の三日三晩から老いのない身体になった私は、自身の嗜好や味覚の変化はもちろん…目の色が変わったことを筆頭に牙が鋭くなり、人間には不可能な怪力を持つことを理解した。 そして、これからどうするべきかも…しっかり理解していた。 その日、違和感を与えないように差し入れられた夕食(残り物だからか、珍しく毒物は入っていなかった)を食べてから、家族全員が寝静まる深夜を待った。 気配を消し部屋を出て、階段を降る。 けものびとになってからというもの、気配の消し方や身の潜め方は手に取るように身が働いてくれる。 お得なことに、軽い身のお陰で床は軋まない。 無音で階段を下ると、玄関ホールにたどり着いた。 差し込む月光に青く照らされる下駄箱の上に家族写真が飾ってあるのを眺めて、私は顔を顰める。 (今となっては、醜悪な家族だとしか思えない) そこに写るのは幼い自分と両親。 過去の他人が、屈託ない笑顔で笑っていた。 なにも憚らず、明け広げでいられた時代の遺物になんて今さら何の感慨もない。  既に後悔すら意味がないからである。 少しだけ写真を眺めてから、静かに写真立てを伏せる。 獣の血が目覚めてしまった時点で、元々人間とは距離が必要だったのだ。  …計画を立てて(かね)てより行き先は決めていたので、不安はない。 これから、田舎の祖母の家に向かう。 ようやく訪れた決別に安堵しながら、少ない荷物を片手に私は生家を後にした。 ▼ 祖母が暮らしていたのは、北海道のSという都市の西側。深く険しい山肌が連なり、キツネやフクロウ…そしてヒグマが生息する自然豊かな場所でもある。  家を出て二日が過ぎた早朝。列車とバスを乗り継いで、朧気な記憶を便りにようやく北の政令都市に辿り着いた。 とりあえず目的には近づいたと安堵しながら駅構内を歩いて改札に差し掛かった時、押し寄せてきた喧騒に私は顔を顰めた。 …ひどく雑多な臭いだ。緑はあれど、あまり元気はないようだ。排気ガスに澱んだ空気の中に草木の匂いは希薄で、無遠慮に掻き鳴らされるクラクションの喧騒は頭痛を催させる。 あまつさえ、道行く人間が発する声が渦を成すように押し寄せてくるのが酷く不快だった。 …よくもまあ、こんな雑然とした場所を正気で歩けるものだ…。 耳も鼻も刺激を訴えて、ひどい目眩がする。 一刻も早く人混みから離れたい私は、目深に被った帽子の下から道行く人間を睨みながら逃げるようにバスに乗り込んだ。 血の記憶がそうさせるのだろうか。私は人間を嫌悪するようになっていた。 誰も自分を見ていないことを理解しているが、視線が怖い。 自分がバケモノなのだと、知られたくない。 走り出したバスの窓から見える未体験の景色は荒んだ気持ちを僅かに宥めた。けれど車窓に人の姿をみる度に居たたまれなくなり、終点に着くまで頭を伏せていた。 もう、自分を人とは名乗れない。 当然だ。人ではないのだから。 (そもそも、けものびととは一体、何者なのだろうか…?) 祖母が教えてくれた伝承の土地を遥々目指してきたが、辿り着くことだけを考えていたせいでその先のことをうっかり失念していた。 …どうしよう、なにも計画がない…。 もしも祖母の家を見つけたとしても、今は誰も棲むものは居ない廃屋だろう。 最悪、原型を留めていないかもしれない。 (家がなかったらどうしよう!) 姿を見られるわけにはいかないから獣として山に暮らすか――廃屋に隠れ棲むべきなのだろうか? 疲れきった身体で長いこと雨に打たれ続けたせいか、どんなに考えても思考がまとまらない。 だが、絶対に人間なんぞには頼るものか。 人間は洒落にならないほど冷酷だと肉親だった女で実証済みだから、身に沁みている。 お伽話の登場人物のように純真無垢な善意だけの人間は、完全なる夢物語。 人が意図的に生み出した幻想でしかないのだ。 (さて、これで綺麗サッパリ人の世界との縁は切れた。どう生きようと誰にも文句は言われないし、言わせない。もともと人間が嫌いだったから、丁度いいじゃないか…) 人としての生きざまに愛着などないし、野良人生を存分に楽しもう。 しかし、こんな身では理解者は元より尽きるまで孤独で生きねばならないのか。   (地獄を超えた褒美がこれじゃ、てんで割りに合わない…) 益体もないことを考えている内に、バスは終点に到着した。 「お客さん、終点ですよ。お客さん? 聞いてます? 降りてください」 慇懃無礼な営業文句に一瞬苛立つが、聞こえないふりをして顔を伏せていると微かな舌打ちが聞こえた。 当然だが、更に嫌な気分になる。 そもそも、(バケモノとはいえ)客に対して舌打ちとは何様だ。 「だから終点だって言ってるでしょう、ほら降りて」 もう敬語もとれ、丁寧語ですらない。 なかなか席を立とうとしない客に業を煮やしたのか、肩を強く掴まれた。 「痛い、なっ!」 あからさまに悪意を込めた掴み方に苛立った私は、咄嗟に運転手の手を振り払った。 ―――こんなヤツ、もうどうなっても構わない。 体内で狂暴な衝動が鎌首をもたげ、全身の血液が爆ぜるように沸騰する。 目の前が怒りで真っ赤になった瞬間、運転席の窓に生温い朱が飛び散った。 「っ…ハァ、ハァ…!」 もんどり打つ動悸を押さえ込んで、肩で息をする。与えられた痛みに、敵意が芽生えた時点で、私の手は獣の爪に変わっていた。 「う、ううう…ぐあ…っ」 酸欠の金魚のように咳き込みながら倒れた運転手を睨み付け、釣り銭を投げつければ切れぎれな呻き声があがる。 こんな失礼極まりない人間など細切れにしても構わなかったけれど、騒ぎを起こして困るのは自分だ。 苦悶の表情で呻く運転手を放置したままバスのステップを駆け降り、急ぎ足で終着停留所を離れると、私は力の限り跳躍して適当な山道に飛び込んだ。 「危機一髪、か」 やはり、人が来る前に離れて正解だった。 付近の住民だろうか、人が駆け寄る足音と「救急車だ、救急車まわせ」という野太い声が聴こえて思わず耳が立つ。 崖下から忙しない会話が届いてきたので見おろすと、停まったままのバスの周囲に救急車とパトカーが集まり、大騒ぎになっていた。 「あっ、アイツ…」 担架に件の運転手が乗せられ、救急車へと運ばれていく。 右腕を血に染め、顔面蒼白で力なく横たわる様はひどく滑稽だった。 (たかが引っ掻かれたくらいで大袈裟に騒ぎやがって、自業自得だろ!) 昼時の静寂を引き裂くサイレンを遠く聞きながら、とりあえず更に山道を奥に向かうことにした。
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