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2 食堂に再臨したアイドル、魔法塔に舞い降りた天使
騎士団寮食堂では、男たちの野太い歓声が上がっていた。
「うおぉお!マリエちゃんが戻ったぞぉお!」
「精霊はまだ俺を見捨ててない」
「俺の胃袋と心を満たしてくれ~」
レネからマリエは一時的に保護していたようなものだから、もうここに戻ることはないと言われショックを受けていた団員たちは、厨房に立つ茉莉恵の姿を見つけると大はしゃぎだった。
「また戻ってきちゃいましたけど、よろしくお願いしますね」
「いや~、結局誰も来てくれないし、正直助かったよ」
茉莉恵の残留を一番喜んでいるのは実は料理長かもしれない。相変わらず人手不足は解消できず、料理長…ピエールはまた倒れる覚悟だった。
「なあ、マリエちゃんて結局団長のなんだったの?」
「俺に聞くなよ。そんなに気になるなら本人に直接聞けよ」
「バカ!それができないから聞いてんだろ」
茉莉恵は騎士団内で最早推される側となってしまっていた。
いったいどうしてそんなことになったのか、と茉莉恵も困惑している。推すのは得意でも、推されるのはどうしたらいいかわからない。
ところで、茉莉恵は用意された食材が以前の倍近くあることに気づいた。
「ピエールさん、もしかして作る量が二倍近くになってませんか?」
「ああそうなんだよ。そろそろ収穫祭だろ?そうなると騎士団は総出で催事と警備に当たるんだ。ここも戦場だよ」
騎士団は通常半数が寮で生活し、残り半数は城下の寄宿舎にいる。寮生活の者が城の警備に当たり、寄宿舎の者は街の警備をする。それを交代制で入れ替え城勤めと街での生活を交互にしていた。
ところが収穫祭は一年で一番大きなイベントで、催事と警備の打ち合わせや訓練が増えるためほぼ全員が寮に集まってくる。食堂は戦争だし、寮内のハウスメイドの数も増員され、ランドリーメイドは悲鳴を上げる季節なのだ。
キッチンメイドは宮殿から相変わらずヘルプで来てくれているようだが、それでも二人。これはもう死亡確定なのでは…
「その分メニューは簡単にするからね。今から大体一か月くらい、頑張ってくれよ」
「が、がんばります…」
倍量はきつい。さすがにへとへとになって仕事をこなしていると、徐々に騎士の数も減り空席が目立つようになった。茉莉恵は汚れたテーブルを拭きつつ、時計をちらりと見れば8時を回ろうとしていた。
レネ様、ちょっと遅いな…
以前のようにここに寝泊まりしてるわけではないし、そろそろ自室に戻らないといけない。勿論ピエールがいるから後からレネが来ても対応できるのだが、単純に部屋に下がる前に一目会えたらな、と思っていた。
ピエールにもう下がって大丈夫だと言われてしまったので、仕方なく食堂を出る。出入口へは執務室の前を通るから立ち寄りたくなるけど、ここはぐっとこらえなきゃいけないとこかな。
茉莉恵は執務室の扉を気にしつつも通過しようとしたとき、ちょうど扉が開いた。思わず振り返れば「失礼しました」と言って誰かが出てくるところだった。
残念、レネ様じゃなかった…でも目が合ってしまったので頭だけ下げる。あれ?私は客人?使用人?やってることは使用人だし私から声をかけてはいけないよね?と思っていたところに、上の方から声がかかった。
「あなたはもしかしてマリエ殿ですか」
「はい。すみません、騎士団の方ですよね?私全員のお顔知らなくて…」
茉莉恵が困ったように返事をすれば、「それはそうだよ」と返ってきた。
「僕先月は寄宿舎の方で街の警備担当だからね。副団長のフィリップだよ。へぇ~君がね~」
なぜか意味ありげに見てくるのを不思議に思いつつも挨拶を返した。
「あ、副団長ってお二人いるんですね!初めまして。もしかしてレネ様から何かお聞きになったんですか?」
「まぁそんなとこかな。へー。君可愛いね。なんだよ、僕が城番の月だったら先に口説いたのに~。あ、よろしくね」
握手を求められ反射的に手を出してしまった。ぎゅっと握られ、しまったチャラ男だこの人と思ったが遅かった。
「あれ?ちょっと手荒れしてる?そっか厨房手伝ってるんだよね?可愛い手なのに~」
ガチャ
「その手を放せフィリップ」
声に気づいたのかレネが中から出てくるなり、フィリップの手を捻り上げた。まるで現行犯逮捕。
「いって。そこまでしなくてもいいじゃないですかー。減るもんじゃないし。ねぇマリエちゃん?」
「減ります」
「え?」
「減ります。SAN値が減ります」
「なにそれ?」
「精神力みたいなものです。私今手を触られて嫌だなって思いました。減ります。過剰な接触はお控えください」
茉莉恵がきっぱりそう言うとレネが軽く抱き寄せる。今にもフィリップを殺しそうな目で睨みながら。
「こわ!団長こわ!え~めっちゃいい子捕まえてるじゃないですか団長~。お堅いくせに羨ましいすわ…」
「持ち場に戻れ」
「へいへい、邪魔ものは去りますよ。じゃあねマリエちゃん、今度僕にもおいしいもの作ってよねー」
チャラ男は終始ヘラヘラとしたまま去っていった。
「レネ様、難しいことは私よくわかりませんが、あれは人選ミスではないですよね?」
「残念ながら騎士団にとっては優秀だ。女であれば誰でも声をかける。マリエも気を付けてくれ」
「人事って難しいんですね」
「全くだ」
茉莉恵はそのまま与えられた自室まで送ってもらった。道すがら、収穫祭の件が立て込んでしばらく寮にも戻れない時があると聞いて心がしぼむような気がした。
部屋の前に着いてしまった。もっと距離があればいいのに。
「お忙しいところ送っていただいてありがとうございました。レネ様、体壊さないで下さいね。無理しないでくださいね?」
茉莉恵がおやすみなさい、と言って部屋に入ろうとすると、ぎゅっと手を掴まれ振り向かされる。
「レネ様?」
「マリエ…もし…指輪から…」
レネが何かを言い淀む。指輪?指輪がどうしたのだろう?
「いや、なんでもない。マリエ…」
使用人エリアは食事の片付けや主の就寝前の支度で出払っているので誰もいない。少し冷たい空気が廊下を流れていくだけだった。
レネは茉莉恵の顎に指を添え上を向かせると、軽く唇を重ね、それから少しだけ下唇を甘噛みして離れた。
「よい夢を」
レネが去っていく。良い夢ならたった今見てしまいました。そう心の中で返事をしながら、ぽーっとした頭で部屋に戻った茉莉恵が、中にいた杏奈にからかわれたのは言うまでもない。
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