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3 推し二人の心情が不穏で不安
「雑用はどう?慣れた?」
二人で朝の支度をしながら茉莉恵が聞く。杏奈はすっかり着慣れたローブを頭からかぶりながら答えた。
「うーん、そうだね、慣れたっていうか、副隊長二人がなんやかんやよく教えてくれて大変に思うとかはないかな」
「そっか、チャラ男みたいな副官じゃなくてよかったね」
「茉莉恵は大変でしょ。人数めっちゃ多くない?」
「あはは、もう乾いた笑いしか出せないよ。でもこの一か月の話だし。クルーが欠けた夏休みが続くと思えば…」
「地獄やな」
「地獄だわ」
着替えた二人は髪を結う。茉莉恵のブラシを持つ手には荒れが目立つ。
「ねえ、手荒れ酷くない?」
「うん、やっぱ水仕事続くと荒れるね」
「あ、アンリ様って薬も作れるって。聞いてみようか?」
「さすが~アンナの彼氏天才~」
二人はきゃいきゃい支度を終えると、それぞれの仕事場へと向かった。
コンコンコン。
杏奈がアンリの部屋をノックすれば、すぐに「どうぞ」と返事があった。
「おはようございます」と入室すると、アンリはどこか機嫌が悪そうだった。
「アンナ、あなた昨日忘れましたね?」
「何をですか?」
試験の用紙か、それとも片付けか…他にやるべきことは何かあったかな?と考える。
あれこれ思案していると、アンリが距離を詰めてきた。近い。
「あの、アンリ様近いです」
反射的に下がろうとすれば、ぐっと腰を掴まれる。
「やはり忘れてますね」
そこで杏奈は「あ!」と思い出した。
「ご、ご褒美ですか?」
後ろめたい気持ちから上目遣いにそう聞けば「その通りです」と返って来る。
ことあるごとに触れてくるアンリに対し、何がご褒美に当たるのか…しかし自分がそれをするのは本当にご褒美なのだろうか。おこがましいのではないか?という思いからつい聞いてしまう。
「あの、アンリ様にとってご褒美ってどういうものですか?」
「私がリクエストしてよろしいのですか?」
しまった、と思った。過剰な要求をされたらどうしよう。内心焦っているところにアンリは「しかし…」と続ける。
「あなたが考えた相応しいご褒美を頂きたいですね。さあ、何を頂けるのですか?」
もう待てない、とでも言うように、艶めかしく唇に触れてくる指先。これではもうおねだりしているようなものではないか、と思う。
「じゃ、じゃあ…私からキスするのはご褒美になりますか?」
「ええ勿論。陛下からの勲章100個分の価値はありますね」
それはいくらなんでも盛りすぎではないだろうか。アンリの換算率がおかしい。
「恥ずかしいから目閉じてくれませんか?」
「触れるだけなんてのはダメですよ?ちゃんと、アンナを感じさせてくださいね?」
そう言うと素直に目を閉じる。長いまつ毛。通った鼻筋。その下にある薄い唇。杏奈は覚悟を決めると…でもどこか誘われるように、背伸びをして唇を合わせる。首に腕を回せば、アンリももっとしやすいように屈んでくれる。
杏奈は一体どうすれば“ちゃんと”したキスになるのかわからない。長さ?深さ?それとも両方?しかし重ねているうちに、もっとそうしていたい欲求が自分にも湧き上がってきた。
最初は重ねていただけの唇を、おずおずと少し開き舌先でアンリの下唇を突っついてみる。彼が僅かに唇を開くので、下唇を吸ってみた。柔らかい感触をほんのり甘噛みしてみる。もっと欲しい。
「あんりさま…」
唇を合わせたまま、つい高まって甘い声で名前を呼んでしまう。
いつの間にかソファに押し倒されていても、気づかないくらいもっとキスして欲しかった。ご褒美をあげるどころか、私がもらってしまっている…そう思った時にはもうアンリも舌を絡める激しい動きに変わっていて、思わず杏奈の口から甘ったるい声が漏れてしまう。
頭も体も、得体のしれない浮遊感があった。のしかかるアンリの重さまで心地良い。
「アンナ、これ以上していると私も我慢しませんが…全部頂いてもよろしいですか?」
セリフはいつもみたいな淡々とした感じなのに、声色はどこか切羽詰まったような、苦しそうな響きがある。おでこを突き合せたまま、アンリの呼吸は少し乱れていてそれがたまらなく色っぽい。
思わず「はい」と言いそうになったとき、ノックが響いた。
杏奈が我に返る。
「わ、私なんてことを…!」
アンリは一度目を閉じて大きく息を吸うと、苦々しく吐き出した。
「無粋な者もいるものですね…」
飛び起きた杏奈はアンリの胸を押しすごい勢いでソファから離れる。着衣と髪の毛の乱れを気にしているが、アンリはそこまでは手を出せていないと心の中ですねた。
「クロードです。開けますがよろしいですか?」
クロードさん、私がいるのもしかして気づいてる?開けられるより開けた方がまだ潔い気がして、扉の影に隠れたまま開けた。
「おはようございます。アンナさん、影にいてもわかりますよ。昨日は時間がないから朝食時に話し合いを、と言っていたのはどちらのアンリ様でしたでしょうか?」
アンリは悪びれずソファで足を組んで座っている。
「さあ、珍しい名前でもないですし他の方だったのでは?」
「アンナさん、あなたにも頼みたいことがありますので逃げないで頂けますか」
「あ~そうだ私アンリ様にお願いがあるんでした~…マリの手荒れが酷くてお薬いただけたらな~って…あ!私昨日の書類を出しっぱなしだったようなそうじゃないような!お先に失礼します!」
「ほら、あなたのせいで逃げられました」
「何が“ほら”ですか。忙しいんです、さっさと仕事してください」
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