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若者を中心にして沢山の人々が行き交う賑やかな表通り。 そこから一線を画した路地裏には、古く小さな商店が静かに立ち並んでいる。 そんな通りの一角に、喫茶「隠れ家」はひっそりと佇んでいた。 レンガ造りの壁がレトロな雰囲気を醸し出している。 店内の装飾も落ち着いていて、誰もが「懐かしい」気分になるものだった。 そんな喫茶「隠れ家」のマスターこと増田朔は、カウンターに立ちながら、ひとり頭を抱えていた。 「まずいな。客が全く来ない」 大きくため息をついて項垂れる。 客も従業員も居ないので、その声は誰に聞かれることもない。 「この調子だと今月も赤字だなぁ」 情けない声が漏れる。 増田は、黙ってさえいれば渋みのある大人の男性といった印象だが、 今この時はしょぼくれたおじさん状態になっていた。 「喫茶店の経営って大変だなあ。  ちゃんとマスターをやれてた親父って実は凄かったんだな」 今更ながら、父親へ尊敬の念を持つ。 喫茶「隠れ家」は元々は増田の父親が経営する店だった。 彼が病気で倒れたのを機に、それまでの仕事を辞めて店を引き継いだ。 つまるところ二代目のマスターになった。 それ以前の増田は、警視庁捜査一課の刑事だった。 刑事を辞めるにあたって、周囲からの反対はあった。 しかし、警察官としてのやる気をとうに失っていた増田は、良い理由ができたとばかりにその職を辞した。 妻や子がいたならば、何としてでも公務員という立場にしがみ付いていたかも知れない。 が、彼は独り身だった。 やる気のない仕事を続けることに虚しささえ覚えていた増田は、30代半ばにしてあっさりと刑事を辞めた。 それから約半年ほどになるのだが……まあ、店の経営は上手く行っていなかった。 当然と言えば当然のことだ。 それまで刑事をやっていた人間が見よう見まねで喫茶店のマスターになったところで、いきなり成功するはずもない。 それでも、先代の頃からの常連客や刑事時代の同僚などに支えられながら、 増田は細々と喫茶「隠れ家」の経営を続けていた。 「俺も、早いうちにまともに税金を払えるぐらいにはなりてえなぁ」 もはや何度目かもわからないため息をつき、独りごちる。 店内に静かなジャズの音色が響くだけの昼下がりだった。 ──その時、店の扉が開き、来客を知らせるドアベルの音が鳴った。 「いらっしゃいま……」 慌てて笑顔を作り、その方へ目を向ける。 が、現れた男を見るなり増田は一気に表情を曇らせた。
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