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「よお、オ●ニー野郎」 「何だよ、チ●カス」 「ははは、酷い言われようだな。  経営難のマスターさんの為に仕事を与えてやってるのは、この俺なんだがなあ」 「うっ……」 痛いところを突かれて増田は押し黙る。 それから、決まりが悪そうに頭を掻いて小さくため息をついた。 「はいはい、ありがたいです。いつも世話になっております。羽留さんよお」 しぶしぶ頭を下げる増田を見て、羽留と呼ばれた男は愉しそうに口角を上げた。 彼は見るからに胡散臭い中年男だった。 濃いグレーのスーツを纏う内側から、隠し切れない怪しい雰囲気が滲み出ている。 「ほらよ、この間の依頼分」 増田が、手元に置いていたA4サイズの茶封筒をポイっとカウンターテーブルの上に投げ置く。 「お、仕事が早いねえ。助かるよ」 封筒の中身を確認して、羽留は満足気に笑う。 そこには、訳ありそうな男女が仲良く腕を絡めたり、寄り添って歩いたり、一緒にホテルに入る様子などの写真が何枚も入っていた。 「どれもこれも良い写真だなあ。さすが元刑事、尾行が上手い」 「何か、あんまり嬉しくねえな」 「褒めてやってるんだから素直に受け取りゃあ良いのに」 「お前の褒め言葉っていちいち嘘くせえんだよ」 「ははは、確かにな」 増田がいくら悪態をつこうとも、羽留は余裕をもって笑い流す。 この胡散臭い男こと羽留賢以(はる けんじ)は、「ハル総合事務所」の経営者だった。 浮気調査や失踪人の捜索などを主に請け負う調査会社だ。 増田は、喫茶「隠れ家」の二代目マスターとして店に立つ傍ら、 副業として「ハル総合事務所」の調査員をやっている。 そうして稼いだ金で、喫茶店の赤字を補填しているのだ。 増田と羽留は、調査員と経営者の間柄だった。 半年前までは、刑事と情報屋の間柄だった。 「それで、今日は写真の回収に来ただけか?」 「いや、実はそれとは別の依頼があってな。その紹介で来たんだ」 「別の依頼?」 「ああ。人捜しの依頼なんだが、どうだ?」 「人捜しか。店の営業時間外で対応できるものなら良いんだがな」 腕を組んで難色を示す増田に向かって、羽留がずいと詰め寄る。 「今回のは緩くて美味しいぞ。  経営難に喘ぐマスターさんにはうってつけだと思うがね」 「内容は?」 「8年前に失踪した女の捜索依頼だ」 「8年前?」 「ああ。依頼者の娘なんだが、男と駆け落ちしてそれ以来連絡が取れないらしい」 「まあ、珍しくもない話だな」 「しかも、妻子持ちの男と不倫した末の駆け落ちときたもんだ」 「そいつは感心しないな。でもまあ、家族としては心配か。  しかしまあ、8年も前に消えた人間の捜索か。さすがに厄介だなぁ」 依頼の内容を聞いても、腕を組んだまま難しい顔を崩さない。 そんな増田に向かって、羽留がニヤリと笑って見せた。 「そうでもない。別に本人を見つけてほしいってわけじゃないからな」 「どういうことだ?」 「家族としてはそろそろ娘の失踪宣告を出したいらしい。  それで、裁判所に提出する資料の1つとして調査会社による記録が欲しいんだとよ」 「なんだ、失踪した娘の安否確認じゃなかったのか」 「まあな。相続問題とか、家庭の事情があるんだろ」 「なるほど。それで、あんたの会社に調査の依頼が来たってわけか」 「そういうこと。と言うわけで、今回はまともに捜索をする必要は無い。  適当に捜したふりだけして、見つかりませんでしたとでも言っておけばいい。  それで金がもらえるんだから美味しい話だろ?」 「うーん」 「どうだ。この依頼、引き受けるかい? マスターさんよ」 ニヤニヤと広角を上げながら羽留が問う。 「……はあ」 少しだけ間を置いてから、小さなため息をついて増田は組んでいた腕を解いた。 「その依頼、引き受けさせて頂きます」 増田は頭を下げた。 仕事を与える者と与えられる者の構図がそこにはあった。 「そう言ってくれると思ってたよ。じゃあ、3日以内でよろしく」 「えっ、3日だと? そんな短期間じゃあさすがに無理……」 「よろしく〜」 困惑する増田の声など聞きもせず、羽留は笑顔で立ち去っていった。 後には、ドアベルの乾いた音が虚しく響く。 再び一人になった店内で、増田はいま一度大きなため息をついた。 「はあ……やれやれ」 本業である喫茶店の売り上げだけではまっていけない以上、副業に頼るしかない。 そんなわけで、増田は羽留から紹介された調査仕事をありがたく頂戴することになった。 「早く、店の売り上げだけでやっていけるようになりてえなあ」 切なる思いは、店内に流れるジャズの中に消えてしまうのだった。
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