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プロローグ 0000 亡くした名前
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ ―― 『詞花集』(崇徳院)
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【???日目】
炎が廊下を包む。
まるで数百の悪魔が、俺をいたぶろうとしてその赤熱した舌で全身を舐め回してくるかのようだ。
あるいは、せせら笑うようにその舌先で小突き回してくる。
そのたびに焼け付くような熱気が、粘ついた汗でべっとりと体に張り付いたバイクスーツを貫いて、ねっとりと体中の皮膚を炙った。
何もかも想定外のことが起きたのだった。
動転して足を怪我して、這うようにここまで逃げてきた。もう腕に力が入らない。
だから、うだるように蒸したバイクスーツを脱ぐことだって自力じゃできやしない。
現代の日本の、現代の大企業の、現代の高層ビルのワンフロアの一角。
ほうほうの体で逃げてきた俺には、もう逃げ場所なんてなくて、必死にたどり着いたこのフロア最奥の倉庫の扉に、背をもたれさせるのがやっとだった。
何年も温めた計画だかなんだかなど、頭からは全部茹だって吹っ飛んでしまった。
俺を殺すであろう、廊下の奥から逆流してくるような炎の渦を睨みつける。
それが、せめてもの抵抗だった。
だが奇しくも、ここが目的地だったのだ。
苦労して正規職員である同僚から盗んだカードキーのIDは、背中越しの電子認証式の扉を開けるためのものだ。だが、もう腕だって上がらない。
計画通りに納品業者に納入させた可燃物を、計画通り、別室で激しく燃やす。
そして計画通りにビル全体の火災報知機能を作動させ、計画通りの経路をたどってこのクソ会社の従業員達が避難して、計画通りのルートで俺は――目的の資料を漁るはずだったのだ。
だが、そんな時間はもう無い。
ここからでは逃げることすらできない。退路は全部潰れている。
火勢を止めてくれるはずのスプリンクラーから水と消火剤の代わりに、可燃液が激しくばら撒かれていた。
火事騒ぎを起こして人払いをするっていう部分だけは、この計画はこの上なく達成されている。
想定外だったのは「これ」をやったのが俺ではない、ということだが。
2年前。
まだ、今日この日のための計画を練ることそれ自体がある意味楽しくなってしまっていた、スパイごっこや探偵ごっこのように現実逃避をしながら構想を組み立てていたあの頃。
――こいつは、その時の"ボツ案"の一つだった。
そうとしか思えなかった。
『ビル全体の上下水道経路と地域冷暖房設備の導管を乗っ取って、ポンプ車でガソリンを流し込んで満たして、各所に仕込んだ発火装置で電源設備をショートさせてその火花で点火して一斉同時に焼き尽くす』
こんなもの、本当に実行したら捜索どころじゃない、単なるテロになってしまう。
だから、後で冷静になって却下したネタ案だったんだが……。
もし俺が監視されていたというのなら、このネタ案を本当に実行しでかしやがったお節介焼き野郎は、それこそ凄まじい執念と資金力と人員と労力と狂気をつぎ込んだとしか思えない。
「あぁ、熱い。痒い、痛い」
体質だか遺伝だかで、ちょっと炙られて熱がこもっただけで赤く腫れて湿疹するくらいに、俺は皮膚が弱い。
だから、この状況。蒸された肌が泡立って粟立つように、ぶつぶつと水ぶくれまみれになっていくのも当たり前だった。
眼前の、悪魔が舌なめずりをして俺を一呑みにしようとちろつかせる、幾百の火勢から、目に見えない熱気が放たれる。
そしてそいつらが、まるで数千の灼熱のミミズになって、無理矢理に指先の爪の間から、表皮と真皮の間に潜り込んでくるのだった。
チリチリと、ジリジリと、痺れて倒れそうになるほどのおぞましい感触で、血管と神経に沿って周囲の細胞を焼き殺しながら、全速力で四肢を駆け上がってくる。
最終的にそれは、俺の心臓と脳みそめがけていた。
世界がひん曲がったかと思うほど、時間の感覚が延びたような気がした。
苦悶が永遠に終わらないような気がした。
そんな、激しい痒みと激しい痛みで延々と集中力をかき乱されているんだから、狂いそうにもなる。
いいや、もうとっくに狂っていたか。
こんな時だっていうのに、死んだ大学時代の先輩を思い出した。
タバコを吸い、その灰を灰皿に器用にトントンと落とす所作が、どうにもかっこいい無骨な先輩だった。
じゃあ俺も、こういう時には、先輩みたいに余裕ぶっこいてタバコでも咥えて紫煙を吐きだせたら、少しでもカッコつけられるんだろうか?
まぁ、あいにくだが俺は皮膚だけじゃなく肺も弱いもんだから、煙はご法度なんだが。
あぁ。
煙で目もやられてて、肺もとっくにイかれてるよ。
「どこで、間違えたかな」
咳き込みながらも、思わずそんな言葉が口をついて出た。
多分、自分に聞かせたかったわけじゃなかったんだろう。
聞かせたい相手を、まさに探すために、ここまでしなければならなかった。
かつての生活も仕事も全部失った。
派遣先で毒にも薬にもならない事務作業をするためだけに通勤する。
それ以外の休日なんかは、誰かと会うこともどこかへ出かけることもせず、夏の朝から冬の晩までウィンドブレーカーひっかけてサンダル履いてコンビニで弁当を買って食うだけの、隠者みたいな生活をしていたものだった。
そして日々の情報収集をして。
2年かけて、このクソ企業コングロマリットだかなんだかの派遣事務員になって信頼勝ち取って、もう2年かけて計画練った。
だが、それでも俺は世間的には単なる「社会的制裁を受けて抹殺された男」つまりスケープゴートだ。
案の定ドジを踏んでおっ死ぬか、俺を嵌めたらしいどこかの狂ったお節介焼きの思惑通りに終わるのが、相応しい末路だったということか。
――――■■■せんせ――
――いつか、私を見つけてね――――
幻聴がまた聞こえた。
今日は遅かったな。
俺は自嘲した。
なぁ、悪いな、■■■。
もし、まだ生きているなら、今度は俺が探される側になるな。
すっごく嫌だけれど、先に行ってしまう。
だから次は、お前が俺を探して、見つけてくれよ。
何十年後かでいいや。
できるだけ、遅くていいから。
あぁ、やっとカッコつけられたかな。
再び俺は自嘲した。
片眉を上げ、片方の口の端だけ吊り上げたような笑みを作る。
その笑い方嫌い、と何度も笑いながら言われた、俺の癖みたいなもんだ。
せめて、睨みつけて、笑って死にたかった。結構咳き込んだがノーカンだろ。
三度俺は自嘲した。
スプリンクラーからは、今も可燃液が放出されている。
だが、それらはとうに火勢に舐め取られ、飲み込まれ、揺らめく橙色の獄炎は可燃液を送り出す高層ビル体内の管という管に逆流しているに違いなかった。
現代日本の、現代大企業の、現代高層ビルでは、健康管理だか士気向上のための職場環境の維持のためには、こういった複雑な巨大配管機構はごく当たり前らしい。上下水道と排気管と地域冷暖房設備と、あとおまけでアロマテラピー的な何某かを合体させた、複雑かつシンプルな電子制御システムってわけだが――それは、今や荒れ狂う悪意の炎がとぐろを巻く根城となっているに違いなかった。
種々の配管、導管の類達が。
逆流した炎によって焼き蝕まれ、膨張させられ、望まぬ破裂に必死に耐えつつも――歪み軋んでいく。
周囲のコンクリートや鉄筋材に、小さな、しかし致命的なひび割れが生じていく。
その微細な音響が、数万の断末魔の合唱となって、まるでお前のせいだと呪ってくるかのように俺の耳に届いてくる、そんな幻聴。
業炎が目の前にまで迫っていた。
そこで俺の意識は白く塗り潰された。
――覚えていたのは、そこまでだ。
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