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「佐々木さん。その作業が終わったら、休憩に入っていいわよ。」
今朝入荷されたばかりのカサブランカを運んでいると、店長がバックヤードからニュッと顔を出した。
私は「はぁい。」と返事をしてから、両手で持っている、大量のカサブランカが入った大きなバケツを下ろした。
花屋は体力勝負だけど、大丈夫?と、面接の時に言われた事を思い出す。
大丈夫です!と笑顔で返したのは、もう6年前。
当時は短大を卒業したばかりで体力もあったし、足りない分は気力で補えたが、両方とも衰えてきた気がする。
腕が千切れそうになるほどの重さから解放された私は、自分の老化を否定するように両腕をブルブル振った。
花屋の朝は早い。
開店は9時だが、その前の作業がある為、出勤は6時。
父と母と一緒に住んでいる家からは徒歩10分弱だが、年齢と共に悪化した貧血のせいで、ベッドから起き上がるのに時間がかかってしまう。
目覚ましのアラームは4時半から鳴り始め、布団から出るまで大体30分。そこから身支度をして、いつもギリギリで家を出る。
濡れても問題ないシリコン製の腕時計は、デジタルで8時39分と表示されている。この時間の間に、持参した朝食を済ませるのが出勤時のルーティンだ。
私はバックヤードに入り、パソコンに向かって顔をしかめる店長に「休憩いただきます。」と声をかけた。
自分のロッカーから、朝食が入った保冷バッグを取り出す。
長テーブルにはパイプ椅子が4つ設置されているが、一つは店長が使用している。
私は店長と対角の位置に座り、バッグから自作のサンドイッチを取り出した。
「毎日毎日、飽きないの?」
店長はそう言って、ノートパソコンをパタリと閉め、横に置いてあったコーヒーを啜った。
私は既にサンドイッチを口に頬張っていた為、こくこくと頷いて答える。
「…具材を、変えてるので。」
「にしても、作るのだって大変でしょ?」
子供の頃から母に植え付けられた『30回咀嚼してから食べ物を飲みこむ習慣』は、26歳になっても健全だ。
私はきちんとその習慣を守ってから返事をして、また一口。
サンドイッチの具材はその日によって様々だが、前の日の夜の残りだったり、休みの日に拵えた作り置きを朝挟むだけなのでそんなに手間はかからない。だが、それを言ったところで私は意味がない事を知っている。
なので私はさっきと同じように頷きながら、咀嚼を繰り返すだけだ。
「私は歳だから、朝はこれだけで充分。」
そう言って店長はまた、マグカップに口をつけた。
キリッとした目元にベリーショートヘアの店長は、確か今年で50歳だったはずだ。
店の規定である黒いワイシャツとエプロンは、店長の真っ赤な唇がよく映える。
花を売る側よりも贈られる側の方がしっくりくるような、華やかな出立ちの店長を横目に、私は最後の一口になったサンドイッチを口に押し込んだ。そのまま、水筒に入ったルイボスティーで流し込む。
…このくだりは、私が覚えてる限り3回目。ようは店長にとって、どうでもいい話って事だ。意味のない、会話。
「なるほど。だから店長は、そんなにスマートなんですね。」
取り出したポケットティッシュで口を拭い、色付きのリップクリームを塗りながら店長に笑い掛けてやる。
この返しは色んなパターンで使うのでもう何度目か分からないが、店長は満足そうにほくそ笑んだ。
この地域は、いわゆる富裕層向けと言っていいだろう。
都心から電車で1本、乗り継ぎなしで行けるこの土地は、ある程度の年収が保証されてる世帯向けのマンションや注文住宅が建ち並ぶ。
そのエリア内の駅から出てすぐにあるこの花屋も勿論、ある程度高い価格設定や品質が売りだ。
地方のスーパーに備え付けられているような街の花屋ではない。Votre Fleuristeという店名は、フランス語で『あなたの花屋』だというが、一体この地域でどれくらいの人間がこの意味を知っているのだろうか。
包装紙で花を包む際に留める為に使用する、店名が金色で印字された黒字のシールを整理しながら私はぼんやりと考えた。
店長と社員である私の他に、パートで入っている大久保さんは、愛想はいいが、全体的に仕事が雑だ。
店は基本的に2人体制で営業する。昨日は私が休みだったから、店にいたのは店長と大久保さん。
いつも取り易いように、縦方向、上向きに重ねているシールは、彼女が1日いるだけで散乱してしまう。
「店のものは丁寧に扱うように」と何度も教えているが、細かい事はどうにも苦手らしい。もしくは、改善する気がないか。
私はため息をつきながら、空いてる時間にこうやって1枚1枚収納していった。
客足が伸びるのはオープンしてすぐと、夕方以降。
時間は正午を過ぎて少し。一度お客様が引いていく時間だ。
シール整理を終えた私は、エプロンやYシャツ同様に店規定の黒いパンツのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には、1件のメッセージ通知。送り主は、4つ年上の姉、百合だ。
「今日仕事終わったらうち来れる?」と2時間前に届いていたメッセージに、私は手早く「わかった」と打ち返す。
3年前に結婚した姉は、自分より2つ年下の夫、陽太さんが単身赴任なのを良いことに悠々自適に暮らしている。
元々ネイルサロン勤務だった百合は、結婚後に自宅の一室で自分のネイルサロンを始めた。
隠れ家ネイルサロン、という肩書きがついた姉のサロンは、そこそこリピーターもついているらしい。
しかもその収入は全て百合のお小遣いとなっているらしく、姉の仕事用SNSに載せられた数々の写真を通して垣間見れる姉の日常は、常に華やかだ。陽太さんが家に帰ってくるのは月に1度程度。その日以外の休みは旅行に行ったり、高級レストランで友人達とランチしたりと忙しそうにしている。外食中心の姉だが、料理の腕も立つ。買った方が早いのでは?と思うほど手間のかかりそうな料理を作っては、それもSNSに載せていた。
一つ欠点をあげるとするなら、一人分の量を作る事が苦手、ということ。だから、食べる為の人手が必要になる。
恐らく今日も、姉の作った見た目も素材も豪華で、良くSNS映えする手料理を食べながら姉の自慢や愚痴を聞くことになるんだろう。
私は仕事終わりにデパートに寄らなければと考えながら、店の前で入るか躊躇している若い女性に「何かお手伝いできることはございますか?。」と笑顔を作って声をかけた。
姉の好みそうな見た目の可愛いお酒を、買わなければならない。
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