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天使のイラストのパッケージが印象的な薄ピンク色のスパークリングワインを片手に、姉の住む一軒家にお邪魔したのは20時を過ぎた頃だった。
チャイムを鳴らすと、「鍵、空いてるから入ってえ。」と姉の間延びした声がインターフォン越しで響く。
私はステンドグラスがはめ込まれた扉をそっとあけ、「お邪魔します。」と声を上げた。
玄関から廊下を通り、灯りの付いたリビングの扉をあける。廊下まで充満していた香ばしいごま油の匂いが、一気に押し寄せてきた。
「写真だけ撮りたいから、ちょっと待っててえ。」
ダイニングテーブルに料理を並べ、万歳しているような格好でスマートフォンを掲げる姉は、そう言って何度か角度を変えて写真を撮った。
何度も目にしたこの光景を、いまさら気に留める事はない。私は素早く姉の横をすり抜け、勝手にキッチンへ入る。
そして業務用と大差ない程大きい最新型の冷蔵庫を開いて、持ってきたワインを仕舞った。
「うん、良い感じ。」
スマートフォンの画面で写真の写り具合を確認して頷いた姉は、今日初めて私に顔を向けた。
ぐるりと瞳を縁取るように沿ったまつ毛はエクステが施されていて、元々大きな姉の目をより強調させる。
小さい頃は「双子みたいにそっくり!」と言われた私たち姉妹は、年齢を重ねるにつれ徐々にそっくりでは無くなっていった。
とにかく見た目に重きを置いて生きてきた姉は、今年で30を迎えたが、側から見ると25前後といった所だろうか。
恐らく、いや確実に私の方が姉に見えるはずだ。桁違いの自己投資と、姉なりの努力の成果だろう。
働く店の質と給料が必ずしも見合うわけでは、ない。
私はドラッグストアで買った基礎化粧品で出来上がった、乾燥気味の頬を擦った。
姉の時間とお金をたっぷりかけた、白く内側から発光しているかのような肌から目を逸らす。
「お酒、冷やしておいたよ。」
「えぇ、ありがとう。嬉しい。あ、座って。」
私のそんな卑屈な気も知らず、姉はピンク色のチークが塗られた頬を綻ばせて、自分の手前にあった椅子を引いた。
私がそこに腰を降ろすと、姉は冷蔵庫から緑色の瓶とグラスを2つ取り出し、私の正面に回って座る。
姉が栓抜きを押し込むと、彼女の手元からプシュッと破裂音が鳴った。
「これ、青島ビール。今日は中華だから、合わせてみたの。」
姉はそう言って、2つのグラスになみなみと黄金色の液体をそそいだ。
見た目は日本のビールと変わらないように見えるソレを、テーブル越しに手渡される。
「はい、乾杯ー。」
姉からグラスを掲げられ、釣られるようにグラスを合わせた。
グラスの半分ほど飲んだ姉は、「日本のより飲みやすいねえ。」と言いながら、大皿に盛られた八宝菜や酢豚を取り分けて始めた。
私はその様子を眺めながら、青島ビールを傾ける。
日本のものよりずっと香りも苦味も薄めで、炭酸も弱い。冷やしているから、余計そう感じさせるのだろうと思った。
青島ビールは本来、常温で飲むことを、恐らく姉は知らない。そして私も、それを教えない。
私は味も素っ気もない青島ビールを一気に飲み干した。
「飲みっぷり良いねえ。はい、食べて。」
「ありがとう。いただきます。」
私に突き出してきた、こんもりと料理が盛られた小皿に対して、姉の小皿には、私に渡した分の半分以下の量しか入っていない。
「夜に食べすぎると、太るから。」と言って、いつもほんの少ししか食べることがない姉が作る大量の料理は、こうやって私が消費しても、半分以上余ってしまう。それをまた、姉はタッパーに詰め「パパとママに。」と帰り際、私に持たせるのだ。
「美味しい?。」
「うん…陽太さんは、いつ帰って来るんだっけ?。」
「えっとねえ、再来週かな?。」
酢豚に入っている野菜だけを食べ続ける姉は、首をかしげながらはにかんだ。
私は咀嚼ついでに頷く。大体、陽太さんは月末に帰ってくるのは変わらないらしい。
家を建ててすぐに単身赴任が決まってから、ずっとだ。
「百合ちゃん。なんか、いいことあった?。」
「え、なんでえ?。」
いつもの姉なら「新しく買ったヒールが可愛いのお。」や「この間行ったフレンチのランチコースが美味しくてえ。」など、聞かれるのを待ってましたとばかりに勢いよく話し出すのが常だ。なんならこちらが問いかける前から話し出すこともある。
私の質問に質問で返してくる姉に、私は疑問を抱かずにはいられなかった。何かが、おかしい。
「なんとなく。っていうか、最近忙しかった?。」
前回この家に呼ばれたのは3週間ほど前だ。大体は陽太さんが帰ってこない日に呼ばれる。
今までは週一のペースで招かれていたのだ。私は、鼻歌でも歌い出しそうな姉を注意深く伺った。
基本的にいつも上機嫌な姉だが、やっぱりいつもと様子が違う気がした。
「最近ね、ペットが出来たの。」
「出来たって…?。」
私は座ったまま、リビングを見渡した。
姉好みの白を基調とした、一見シンプルに見えて凝った作りになっている家具や、ヴィンテージ風で揃えた間接照明が置かれた部屋に、動物は見当たらない。勿論、トイレやオモチャなどペットを飼うために必要なグッズも確認できなかった。
ふと、姉の言葉に違和感を覚える。
そもそも、ペットは飼うものであってできる物では、ないのだ。
姉のことば使いは昔からこういう感じだが、それでも払拭できない得体の知れない何かの存在に、私は薄気味悪さを感じた。
「んふふ。」
ニンマリと口角をあげる姉は、依然として口を開こうとしない。困惑している私をみて、楽しんでいるようにも見えた。
もしかしたら2階や、姉と陽太さんの使う寝室にいるのかもしれないが、もしそうなら私には探しようがない。
私は肩を竦めて、ちびちびと青島ビールを飲む姉に答えを求めた。
「犬?猫?。」
「24歳の、男の子。」
「え、ちょっと百合ちゃ。」
姉の口から出た言葉に意表を突かれ、口に入っていたままの八宝菜が気管に入った。
思わず咳き込んでしまう私に、姉は立ち上がって「大丈夫?。」とティッシュを差し出してくる。
24歳の、おとこのこ。
姉の手からティッシュを一枚とり、口を押さえて咽せながらも脳内で反芻してみるが、処理が仕切れない。
だが混乱する中でも、どこかに潜んでいた冷静なもう一人の自分が「それなら出来た。でも間違いじゃないか。」と脳内で囁く。
「…大丈夫じゃ、ない。」
「びっくりしたあ?。」
反射的に滲んでしまった涙を指の背で拭った。無理くり咳き込んだせいで、声が掠れる。
びっくりした、というか。姉は何かとサプライズが好きな女だが、それはあくまで人を喜ばせるためであって。
この件に関しては、どう考えても誰も喜ぶことのないサプライズだ。
喉が、ヒリヒリと痛い。
「陽太さんと、離婚するの?。」
「しないよお。」
アルコールが回ったのか、いつもよりさらに話す速度が遅くなった姉は、トロンとした目つきで笑って続ける。
「陽太君とはね、セックスレスなの。」
セックスレス。私はその言葉に息を呑んだ。
姉と性関係についての事情は話したことは、これまで一度もない。
学生時代から男に困ることがなかった姉に、母はいつもため息をこぼしていた。
「百合ちゃんはねえ、可愛いからしょうがないと思うんだけど…女の子なんだから、貞操概念は必要でしょ?」と諭す母に、猫撫で声で誤魔化す姉を見てきた結果、私は異性を家に招くどころか、公言することすら憚れるようになった。大人になってからも、それは変わることはない。
一度だけ、姉の情事を目撃してしまった事があった。
あれは、姉が高校生の時だ。その時、確か両親は家にいなかった。
学校から帰ってきた小学生の私は、姉の部屋から途切れ途切れに聞こえてくる か細く甘い声を猫の鳴き声だと勘違いしてしまったのだ。
普段から部屋を勝手に開けると姉に怒られていたので、私は忍足で姉の部屋まで向かった。
そして、音を立てないようにそっと姉の部屋の扉を開けたのだ。
その光景を、私は今でもはっきりと覚えている。
天蓋がついた、お姫様が使うような姉のベッドの上で、男が寝ていた。
姉は、男にまたがる形で座っていたのだが、私はその光景にギョッとしてしまった。姉が裸だったからだ。
背中を剃らせ、長い髪を揺らしていた。
猫の鳴き声だと思っていたのは、今考えると姉の喘ぎ声だったのだ。
保健体育の授業や、姉の部屋からこっそり借りた漫画の知識で、幼い私は既に姉達が及んでいる行為が何かを知っていた。
えっち、してる。
私は勝手に見てしまった罪悪感と、初めて見たものへの恐怖で後退りした。
扉を閉める事を忘れて、また足音を立てないよう細心の注意を払って、逃げたのだ。
百合ちゃんが、セックスレス。
それはなんだか、とても不似合いな事に思えた。
若さと美貌を金で買い、見せるための料理を振る舞い、愛されるための準備を怠らない姉。
実家から通える職場を選び、何かに夢中になることも、かといって結婚もしていない私。
唯一姉より出来た勉強だって、学校を卒業して仕舞えばあまり意味はなかった。
その証拠に、今や自分でサロンを営む身の姉とは年収だって、私の方がずっと低い。
「アオイ君っていうの。可愛いでしょう?。」
渦巻いていく雨雲のような、じっとりとした感情が私の中でむくむくと大きくなっていく。
姉から押し付けられるように出されたスマートフォンの画面に映る男を凝視した。
男にしたら長めの髪は、ゆるくパーマがかっている。切れ長の二重。鼻筋が通っていて、唇が薄い。
姉が好きそうな、涼しげな顔。24歳の年相応は忘れてしまったが、どことなく少年っぽさが残っている。
そんなアオイ君と頬をくっつけるようにして、微笑む姉。
この2ショットは、誰が見てもアウトじゃない?私はスマートフォンを突き返すように姉に渡した。
「…不倫?だよ?。」
「違うよ、ペットだもん。」
まだそれを言うか。悪びれもなくペットだと繰り返す姉に、私は嫌悪を通り越して呆れ果てる。
目の前に盛り付けられた麻婆茄子を、直バシで掴んだ。「温め直そうか?。」という姉を無視して、そのまま口に突っ込む。
ぐにゃりとした茄子を噛み締めると、茄子にたっぷり吸収した脂がジュワッと舌の上で広がった。
姉は立ち上がると、空になった青島ビールの瓶とグラスを持ってキッチンへ向かう。
そしてシャンパングラスを2つと、さっき私が持参したスパークリングワインを持って戻ってきた。
「かすみが働いてるお店の近くに、美容室出来たでしょ?そこで美容師さんやってるの。」
「美容師?どこで出会ったの?。」
姉は行きつけの美容室があったはずだ。しかも、用途によっていく場所を変えている。
カット、カラー、トリートメント。姉は全て別々の美容室に行っているのだ。よっぽど流行りのものをいち早く取り入れている所でない限りは、行きつけの店を乗り換えることはしないだろう。
アオイ君とやらが働く美容室は姉の言う通り、私の職場とは目と鼻の先だ。新規オープンの前に、美容室の店長が挨拶にきていた事は記憶に新しい。
だが、取り立てて何かに特化している点はない。いたって普通の美容室のはずだ。
「ビラ配りしててね、そこで。」
先回りするように答えた姉は「んふふ。」と姉は声を漏らして笑った。きっと、アオイ君の話をしたくてたまらないのだろう。
わざわざ私の隣に移動してきた姉は、スパークリングワインのコルクを抜いた。
「写真は撮らなかったの?。」
折角姉が好んで写真を撮りそうなボトルを選んできたのに。気泡を放ちながらピンクの液体が注がれていくシャンパングラスから、目を離さずに答えた姉の返事は、うんともううんとも聞こえた。それに私は少なからずがっかりとしてしまう。
「アオイ君はね、寂しいっていうと、すぐ来てくれるの。」
私は色々と言ってやりたくなるのを堪えて、とりあえず話を聞くことに徹する。姉の言い分はこうだ。
アオイ君からの猛烈なアピールを受けて、最初は断っていた事。
それでもめげずにデートへ誘ってくるアオイ君へ、面と向かってはっきり断るために夜のバーで待ち合わせをしたこと。
既婚者でもいい、一目惚れだと何度も言ってくるアオイ君がなんだか可愛くて、そのままセックスをしてしまったこと。
この馬鹿げた話を聞き終わるまでに、私はすでに4杯目のスパークワインを飲むはめになった。自分の口を塞ぐためだ。
なんで連絡先教えたの?本気で断る気なら、夜のバーじゃなくて昼間のファミレスで充分でしょ?
100歩譲って、酔ってセックスしてしまったとしよう。でも、その一晩で終わりに出来なかったの?
姉が一言話すたびに、こうやって反論しそうになるのを堪える度に、私はガブガブと浴びるようにワインを煽った。
霞み出した視界で、目を凝してボトルを覗く。フルボトルは、約半分も空いてしまっていた。姉はまだ一度もつぎ直していなかったはずなので、飲んだのは、ほぼ私だ。
「百合ちゃんは…そのこの子を好きなの?。」
「可愛いなって。よしよししたくなるんだよねえ。」
「ペットは家族の括りに入るんじゃないの?。」
あくまでも言い切る姉に、私はアルコールの力も働き、強い口調で問いただしてしまう。
普段なら、絶対にこんな言い方はしない。母も父も私も。今まで百合ちゃんの側に人間は、誰も彼女に強く言えないのだ。
だって、ほら。今みたいに、眉毛を思いっきり下げて口を尖らせる姉は、少し揺すったら泣いてしまいそうな顔になる。
大きな瞳に涙を浮かべて、上目遣いで見てくるのは姉の常套手段だ。
「ペットにも愛はあるよ…それじゃ、アオイ君はペットじゃなくて、百合ちゃんのおもちゃじゃん。」
じっと見つめてくる姉から目を逸らし、私は席を立った。冷蔵庫に入っているミネラルウォーターを取るためだ。一旦、酔いを醒ましたい。
「…おもちゃ…。」
姉は両手で持ったままワインの減らないグラスへ視線を落とした。キッチンから姉を観察しながら、ペットボトルの蓋をあける。
流し込むように勢いよく水を摂取する。よく冷えた水が身体中に染み渡っていく。
私はペットボトルを持ったまま、また椅子に座り直した。よかった、このままさめざめと泣かれてしまっては、私が悪者になったような気分になる。
姉の顔を覗き込んで、私はハッとした。
姉は、泣いてなんかいなかった。屈託なく笑ったのだ。
「そっかあ、おもちゃね。うん。無くしたり、壊れたら嫌だもんねえ。」
そう言って「上手いこと言うね、かすみちゃん。」と続けた姉に、私は言葉を失った。
ハハ、と私も乾いた笑いが溢れてしまう。
愛想がよく美しく、そして、したたか。だけどそれは、姉が自分で作り上げた、見てくれだけのイミテーションでしかない。
アオイ君は、姉の作った食事を食べたのだろうか。もう冷め切った姉の手料理を見渡す。彩り良く、見た目も華やか。盛り付けられたお皿だって、きっと姉によって選び抜かれたものだ。
「大切に、扱わなきゃ。」
姉は頷きながら、独り言のように呟いた。
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