第1章 信行と信長

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第1章 信行と信長

現在〈=西暦1583年06月〉より遡る事 36年前の西暦1547年03月03日の昼下がり 尾張国を治めるといってもまだ小国の 大名であった織田 信秀はこの日朝から そわそわしておりました。 その理由は… 信秀の正室である亞彌〈=土田御前〉が、 5番目の子を懐妊しいつ産まれても不思議ではない時期〈=臨月〉を迎えたからでした。 信秀「いつ、子は産まれる?本日か?明日か?明後日か?」 信秀は子煩悩でしたので子が産まれる事をとても楽しみにしていましたが自身の正妻である亞彌に対しては…全くと言って良いほど、興味関心がありませんでした。 はる「お館様、お気が早ようございます。 子を産むのは一大事ですから今しばらくお待ち下さりませ…」 産まれてくる子の乳母として信秀から任命されたはるも若であろうが姫であろうが大切に育てるつもりでおりましたが… 亞彌「喜八郎の体調は…大事ない…な?」 亞彌の興味関心は…ただ1人の子だけに集中しており…今にも新たな子が産まれようとしているのに…喜八郎の事しか頭になく… 愛「無論にございます。きちんと私が喜八郎様の体調を確認しておりますので御安堵下さりませ…」 喜八郎の乳母である愛を産所まで幾度となく呼び寄せる程でございました。 信秀「またか…。 亞彌の子は喜八郎よりおらぬのか?」 これには愛情深き信秀でさえあきれ果ててしまいただでさえ興味関心がないというのに…更に2人の関係が悪化する要因でした。 すると…それからすぐ、 亞彌付きの侍女である小夜(さよ)が… 小夜「お生まれになりました。姫君にござります。はる殿はすぐ産所に来られよ…」 はるを呼びに来たのではるはいそいそと 産まれたばかりの姫を引き取りました。 そして信秀に姫を見せると信秀は、 とても嬉しそうに目を細めておりました。 そして… 信秀「凛とした姫君になるように… きちんと教育をしてくれよ…。はる。」 はる「畏まりました…」 由来は定かでないもののその姫は、 お市と名付けられ乳母であるはると 父親である信秀の愛を一身に受け 聡明かつ美しい姫に育つのですが それはまだ先の話でございます。 戦になれば鬼柴田と呼ばれる織田家家老の柴田勝家も一目置くほど勇猛果敢に敵を攻める信秀ではございますが…前述した通りとても子煩悩でございますのでお市の事となるとそれはそれは優しく微笑んでいました。 信秀「お市、父の膝に座りなさい。 ああ、もう本当に目に入れても痛くないとはお市のためにある言葉ではないか?」 はる「お館様は本当にお市様の事が可愛くて可愛くて仕方ない御様子ですね。」 はるがお市を寝かしつけていると… まだ赤子であるお市の頭を撫でながら… 信秀「当たり前だ、目に入れても痛くないとはお市の事を言うのだと儂は確信したのだ…それに…お市ならば絶世の美女となるであろう…」 はる「まだ赤子ですよ?お館様…」 その溺愛ぶりときたら乳母であるはるでさえ 驚きを隠せない程でございました…。 信秀「お市の嫁入りが不安だ…」 はる「お館様、まだ赤子ですよ?」 しかし… お市を溺愛する信秀とは対照的なのが お市の母親である亞彌でございました…。 信秀「亞彌、そなたはどうしてお市の元に行かぬのだ…?お市が気の毒だとは思わぬのか?」 信秀が亞彌に対してお市への態度を改めるよう説得を試みましたが… 亞彌「私はお市の事よりも 身体が弱い喜八郎の事が案じられるわ…。」 亞彌の中心は…お市ではなく信行でもなく…6歳年上の同母兄であり幼名・喜八郎(きはちろう)の事ばかりを気にしておりました。 喜八郎は産まれた時から病弱で… 「長くは生きられない」と医者から余命宣告を受ける程でしたので信秀も確かに気にはなってはおりましたが… 信秀「お主が産んだのは喜八郎だけではあるまい?他の子らにも気を配るべきでは?」 信秀が言うとおりで喜八郎以外の子達は皆 亞彌から愛されたいと願いその愛を欲しながらずっと苦しんでおりました。 但し… そんなワガママを言ってしまえば… 「喜八郎は病があるので自由な生活をする事が出来ないけれど皆は好きな事が出来るじゃないの!あの子が可哀想だと思わないの?」 などと頭ごなしに怒られるのは確定的であり ただでさえ愛してくれない母から更に嫌われる事など子ども達にとっては精神的苦痛以外の何ものでもないのでございます。 織田信長「母など俺には要らぬ。 犬千代や千代丸〈=後の池田恒興〉がおるならそれで良い。」 信長も母である亞彌の愛に餓えている1人ではあるのですらもう既に諦めておりました。 織田信長「それに…子の愛し方などあのお方には分からぬのであろう…」 諦めの胸中に達した信長はさておき、 既に元服〈=成人〉し大人の仲間入りをした信行でさえ、 織田信行「母上にこれ以上嫌われては織田家で生きる事など出来るはずない。」 これ以上嫌われたくはないと思って… 何も言えず本音をその胸でひた隠ししているのに…まだ幼き千七丸とお市に何か母に対して訴えよなどと言ったとしても基本的に何も言えません。 なので… 母を目で見つめ訴える事にしたようですが 何も言わず見ているだけでは想いはなかなか届かないものでございます。 稀に届く事もありますが これはまたレアなケースでございます。 それに… 亞彌の頭の中には喜八郎しかおらず、 2人の事など産んだらそれで終わり…です。 それとこの時代… 身分の高い女性は子を産むだけで育てるのは乳母と呼ばれる女性のお仕事だった為… 亞彌の子への愛がなさすぎるのはその辺りの事も関係していたのかもしれません。   やはり…残念ではありますが、 お市と千七丸の想いは亞彌に届かず… 亞彌「お市と千七丸は何を考えているのかしら?言葉で言えば良いのに…何だか恐いわ…」 などと余計に亞彌から嫌われる結果となり とんだ悪循環となってしまったのですが… まだ幼き子らにそのような事を求める事こそ無茶苦茶な話でございました。 但し… 千七丸はお市程ではないにしても信秀よりそれなりに可愛がられておりました。 それに千七丸は男児でしたので父親の側にいられたら基本的に満足しておりました。 千七丸「俺は父上のような強き男となる!」 信秀「千七は嬉しい事を言うてくれる故父はとても嬉しく思うておるぞ。お市もおいで」 信秀は千七丸とお市を膝に乗せ、 2人を大層可愛がってくれたのですが… お市「母上はどうしてどこにもおられぬ?」 お市は母である亞彌に甘えたくて仕方ありませんでしたが亞彌はお市の気持ちになど寄り添うつもりなど更々なく…。 はる「姫様にはこのはるがおります。 はるには姫様と同じくらいの娘がおりましてな…姫様が子をお産みになられた際には母子で乳母を務めたいと思うておりまする。」   はるは亞彌の分もこの幼き姫に有りっ丈の愛を捧げようとこの時強く誓いました。 しかし… この頃はまだ異母姉が側におりました。 その異母姉の名は…犬姫。 犬姫の母親は亞彌…ではなく 信長の庶兄である信広の同じ母親である さゆりでございました。 それ故、亞彌のような気位の高さはないのですが年齢差はそれなりにあり信長より少し上でございましたので… お市「…あの異母姉(あねさま)様…」 同母兄である信長でさえ遠慮して…というよりあまり話したくない存在であるため、 異母姉である犬姫に対してお市はとても遠慮してしまい素直な思いなぞ口に出来るはずもなく… 犬姫「あら?お市、どうしたのかしら?」 有りっ丈の勇気を出し声を掛けるまでは出来ても…どのように話して良いか分からず お市「何でもありませぬ…」 結局、顔を見るなり去ってしまうので… そんな異母妹の様子を案じている犬姫は… 犬姫「…お市は一体どうしたのかしら? もしかして私は父上に似て背が高いから 緊張してしまったのかしら?ねぇ…。お振?私って恐い?威圧感とかあるかしら?」 産まれた時から犬姫を育てている乳母の振に もの凄い勢いで質問攻めをしてしまいました しかし… お振「姫様、さすがに私はお市様でないので分かりかねますがそのように怒濤の質問攻めをしてしまうところを直さなければ良き縁談はないやもしれませぬ…」 お振でさえもさすがのこの問いには 困惑を隠せませんでしたが確かに犬姫の縁談は数少ないものでございました。 犬姫「…そうかしら…?気をつけるわ…」 犬姫が乳母であるお振から悪い癖を指摘され 落ち込んでいるまさにその頃 お市「姉上様、母上様。 どうしたら…甘える事が出来るのかしら?」 お市は独りぼっちで寂しさを抱えながら 秘かに涙を浮かべていたのでございます。 そんなお市を可哀想に思っていた人が 父親である信秀以外にもう1人いました。 信行「お市…」 それはお市の同母兄である 織田信行でございました。 気の優しい性格であり品行方正な信行は、 寂しそうな妹の様子を見て見ぬふりなど 出来ませんでした。 色んな四季折々の景色をお市に見せてくれて 忙しい仕事の合間を見つけては話し相手になってくれました。 なのでお市も 「兄様、この華はなんて名前かしら?」 「兄様、この本、見せて下さりませ。」 何かある度…いいえ…何か理由を作っては 度々信行の居室を訪れるようになって おりました。 何故なら信行は穏やかで優しく 品行方正で凛々しい若武者なので、 例えどんなに仕事が忙しくてもお市の事を 決して邪険にせずきちんとお市が納得 するまで付き合ってくれる所がありました。 お市はそんな信行の事を兄様と呼び兄弟の中でも特に慕っていました…。 お市「兄様、ありがとうございました。 これで失礼致しますね。」 信行「ああ、またいつでもおいで。」 しかしお市には理解に苦しむ人がいました。 この人の生き様は誰にも分からないかもしれないと思うくらい…。 奇抜…いいえ、破天荒なその人は、 織田 信長…お市の2人目の同母兄です。 ちょうど信長の事を考えていた所、 お市の目の前に現れた信長は… やはり奇抜な格好をしていました。 信長「お市、また信行のところか?」 お市は信長の問い掛けには答えず 気になっていた事を信長にぶつけました。 お市「兄上様こそ変な格好はお辞め下さい。 領民が皆、笑うておりまする。また尾張のうつけ様がうつけな格好をしていると…。」 お市は泣きそうになりながらも訴えましたが信長はなんと… 信長「フハハッ」 お市の懸命な訴えを笑い飛ばしたのです。 お市「…?」 信長「大したことはない。 下らぬ噂などは捨て置け。」と 言い残しまた奇抜な格好をしたまま 城下町へと姿を消してしまいました。 はる「これはまた姫様の兄上は個性的な方が多くいらっしゃいますね?」 はるが苦笑いをしながら信長について話すと 後ろから強い殺気を感じはるは震えてしまいそうになりました。 それは… 亞彌「あのようなうつけ者、私の腹から産まれたかと思うと憎らしくて憎らしくて怒りの収め方がさっぱり分からぬ…!」 信長をこの世に産んだ亞彌でございました。 お市「母上様!」 これは甘える機会とお市が声を発したのですが亞彌はいつも以上に機嫌を損ねており… 亞彌「煩いわね!これ以上、 私の気分を損ねさせないで頂戴!」
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