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そして今、車の中、恵美はなおも口を開くことができないままでいる。日本からそう離れていないベトナムですら、今の恵美には想像できる世界の外側だった。
そんな恵美を見て、悟志は微笑んだ。
「どうする?俺はどっちでもいいんだよね」
「え?」
それは予想していなかった言葉だった。
「今は恵美のお母さんのことだってあるじゃん。」
「でも」
「本当はさ」
悟志は前を向き直った。少し遠くを見つめているようだった。
「本当はこの旅行まで、ずっと迷ってて。海外転勤って会社の中だといいことみたいな雰囲気があってさ。自分の経験とかを考えたら多分、行った方がいいんだけど」
企業がどのようなものかは分からないが、その通りだろうことは恵美にも想像がついた。
「でも、さっきのお土産屋で、昔もこんな話してたな、って思ったら、なんかどうでも良くなっちゃってさ。最近は忙しくて分かんなくなってたけど、俺にとって一番大事なのは仕事じゃないんだよ。だから恵美が選んでいい」
「海外に行きたいって、昔から言ってたじゃん」
「少しは興味はあるけど。でも昔は、ちょっと格好つけたかった所もあるっていうか」
実は少し、恵美にも分かっていたことだった。
「っていうか、断れるの?」
「分かんない。でもこっちにも事情はあるし、話してみることはできるでしょ。もし完全にダメだったら、転職でもなんでもする。遠距離は嫌だ」
「転職。大変そう」
「そうかな。余裕でしょ」
余裕でしょ、と恵美は繰り返す。
悟志は今も絵美の好きな、自由な悟志だった。車を打つ雨の音が、前方のテールライトが、さっきよりも鮮やかに感じられた。
たとえどこに居ても、飛行機があればすぐにお母さんのところまで帰れるだろう。仕事なんていつ辞めても変わらないし、恵美としても未練はない。友達も謝ればきっと許してくれる。ベトナムも面白いかもしれない。悟志と一緒に居られさえすれば。
恵美も薄く笑った。
「私もどっちでもいいや。でも、お母さんに相談した後でもう一回、ちゃんと話して決めようよ」
「分かった。そうしよう」
悟志は両手を頭の後ろで組んで、背もたれに寄りかかった。
「今日話せてよかった。言うタイミングがなくて」
「渋滞のおかげだね」
「あと、旅行のおかげだよ。ありがとう」
「いやいや。私が行きたかったから」
「これからちょっと大変かもしれないけど、よろしく」
「こちらこそ」
後はその場で話し合うべきこともなく、
小さくラジオをつけた車内で、しりとりをしながら帰った。
寝不足の明日は、明日の恵美が頑張ればいいのだ。
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