君の音が聞こえる

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 どこからともなく僕の心に語りかけるように旋律が聞こえてきた。  ピアノの音だ。僕は音のする方へと、近づいてみる。  丘の上。小さな家。小窓から少し中を覗くと、少女がピアノを弾いていた。金色の髪。はちみつが流れるように垂れている。一枚の絵を見ているようだ。ピアノはその背景となる音楽である。  僕はピアノを弾くことはできないが、この心に染み込む音色をいつまでも聞いていたいと思った。  それから、時おり。僕は少女のピアノの音を聴くために、丘にあるその家に訪ねていった。  それは、聴いているうちに、僕の心をとらえて離さなくなった。  何故、この曲が気になるのだろう。知らない曲だ。しかし、初めて耳にした時から、僕は惹かれていた。  ある時、僕はもう少しそばまで行って聴きたいと思うようになった。あまり近くで聴いていては、いつか知られてしまう。  きっと、ここは秘密の場所で、この曲も秘密で。  彼女の心のうちをひそかに覗いて見ているような、そんな感覚に陥っていた。  その旋律を奏でる指はどれほど美しいのかと夢想する。どのような表情を浮かべて、奏でているのだろう。  指がピアノの鍵盤に触れるたび、小槌が弦を叩いているのだ。あの黒い板で覆われて、中は見えないが。  その曲が心に流れるたびに、僕に何かを伝えようとしているとさえ思う。  とうとう名前を知りたくなった。  この曲は何という?  君を何と呼べばいい?  僕はいつの間にか、この耳に響く音のことだけでなく、君自身に惹かれるようになった。  いや、ピアノそのものが君の一部だ。  君がいなくなった。僕の前から。  どうしても、近くにいたいと感じたままに窓から見ていたとき、不意に君を見る僕の目と君の目が合った。  いけない。思った時には既に時遅し。君はその白く透き通る頬にほんのり赤い色をつけて奥の見えない場所に入っていった。  しばらくピアノの音は聞こえなくなった。  人目につかぬ場所にいた彼女。今度こそ本当に人目につかぬ場所へと潜ってしまった。    一週間が経った。ずっと彼女の音が聞けないままでいる。  心の中に灯っていた灯りがすっと消えたようだった。  ああ、彼女に会いたい。  気持ちの赴くままに、彼女の隠れ家を訪ねる。  そばまで行くと、聞こえてきた。あの旋律が。  僕の心をとらえて離さない。  僕は小窓に近づくと、手を触れる。  ピアノの音が止んだ。  彼女はりんごのように頬を色づかせる。おもむろに立ち上がり、僕の方へと一歩一歩、歩み寄る。  小窓に触れる僕の手に、合わせるように君が小窓に手を触れる。  窓が開いた。  彼女の心が開かれた瞬間だった。 「……あなた、お名前は?」 「……僕はウィン。ピアノが僕に教えてくれた。君の心が僕に語りかけていた」 『あなたは、誰?』 『私はあなたを知りたいの』 「僕はウィン。君に知ってほしくてここにいる」  僕は右手を差し出す。 「私はエリーネ。あなたを待っていたの」  僕の手に君の手が重なる。  ピアノは、今は静かに僕ら二人を見つめていた。
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