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「どういう薬かは、分かっているようだな」
冷たい刃の切っ先を突きつけるような、はたからでもヒヤリとする声音だった。怒っている――そう言えば、彼が人に怒りを向けるのは、初めて見る。何か過ぎるようで、別の誤解を生じているように感じた。まるで麻薬か何かのように。
「あの……、それは睡眠薬なの」
「そうだ」彼は静かに目を瞑って答える。
「強力性、依存性からほぼ全ての国で認可されていない。日本でも、入院管理下の短期のみで使用判断は厳重な筈だ」
「だから何だって言うんです? 実際彼女は眠れずに苦しんでいた。薬は効いていた。耐性が付けば多量になるのは当然で……そもそも傷付いた原因はあなたじゃないんですか?」
違う――さっと目を向けるが、彼は無表情のままだった。
「論点をずらすな。お前とする話じゃない」
「じゃあ何で出て来るんですか? もうあなたの出る幕じゃない。あなたみたいな遊び人に惑わされて汚されて、ボロボロになって……ようやく僕のものになった。そうだ、どうせ僕はお下がりばかりだ……それでも愛してあげ――」
「黙れ」
玄関を上がり近づくのに合わせて男性は後ずさる。薬が拾われる。
「何故自宅にこれほど常備してある? 何に使っている」
「憶測でものを言うのはやめてください。僕は医者だ。僕を必要とする患者が何人いようと、何もおかしくない。誰が医者の“診断”を裁くと言うんです?」
「そうだな、疑わしきは罰せない」
プチプチと彼の手の中で音がする。それが不気味で自分も男性も固唾を飲んでただ視線を向けていた。音が止んでじゃらりと変わる。
「“医者”が自分に処方した薬を多量に服用しても、疑わしいだけだろう」
「や、止めろ、近づくな!」
「致死量分は持たない方が良かったな」
「う、うわあぁぁああ」
壁に背が付き、どたりと尻を付く。弾みで上着から何か落ちた――転がる注射器と恐らく拘束バンド――と、同時に。
バキ
目をつむってしまう音がして、静かになった。
恐る恐る目を開けると、彼は気絶したらしい男性の瞳孔を確認してひと言漏らした。しまった、と。
「――これだと飲み込めなさそうだな」
***
外は白み空気は澄んでいた。未だ静寂で誰の姿もない。
目を凝らせば薄く見える二つの影を踏みながら、歩く。
「自分でけじめを付けるから、手を出さないで・て言ったのに」
「もう付いたと思って」彼は悪びれずに肩をすくめる。どこまで本気だったか、この人達の底を知ろうとするのを本能が止めるのはきっと自分だけではないだろう。
「でも……ありがとう。助かったわ」
本当に。一人で戻っていたらどうなっていたか、最後に目にしたものを思い出すと冷や汗が出る。
パーキングに停めた車の前で、彼は少し緊張したように口を開いた。
「あのさ……」としかしそれきりで、口ごもる。
言いたいことは山ほどあって、谷ほど言えない。同じ間が流れた。
「ご褒美、欲しい?」
「――ああ」
途端ほころんだ彼の、肩に手を置く。
「少し屈んで……目を瞑って」いつものように言われた通りにする彼の頬に。
パアン と青天の朝を裂く、気味よい音が響き渡った。
「もう浮気したら、許さないんだからね?」
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