思い出の対価

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「こんなものあったかしら?」 部屋の片付けをしている最中、本棚の一番下に見覚えのないぬいぐるみがあるのに気が付きました。 パンダの背中のようにも見えますが? 正面に向けようと触れた途端、ぬいぐるみだと信じきっていたものが動き出したため、私は驚きのあまり2メートルくらい後ろに吹っ飛んでしまいました。 その一部始終を見ていた夫は、心配するどころか大笑い。 「あなたのイタズラ!?」 「いやいや違うよ」 夫の言葉が嘘ではないことはすぐに判明しました。 ぬいぐるみは自ら振り返るとすぐこちらに向かって歩み寄り、おまけに話し掛けてもきたのですから。 「ここは、あなたたちの住処ですか?」 「そ、そうだけど」 「だとしたらごめんなさい。お邪魔してます」 「君は何?どこから来たの?」 「私は貘(バク)です。どこから来たわけでもないですが、通りすがりに佇んでいるだけです」 「バク? 佇んでいるだけ?」 疑問符が頭の中にどんどん湧き上がって来るばかりです。 「はい、私たちは人と違って住居など持ちませんから」 姿形は確かに動物園のバクに似ていはますが、もちろん動物でもぬいぐるみでもありません。 ただバクが言うには、自分は『魔』なのだそうです。 「人は悪い魔を悪魔、善い魔を善魔と言うらしいですが、そういうことなら私はただの魔でしかありません」 「善魔というのは聞いた事がないけれど……。人なら悪人善人とは言うわね。私たちはただの人だし」 「なるほどな。ところで『バク』で『魔』といったら、例の夢を食べるアレの事かな?」 「私は夢を食べているわけではなく、記憶を持引き取っているだけです」 「引き取る?」 「引き取った記憶をポイントに変えてもらって、それを別の魔に融通するのです。それで自分たちの糧を得たり、記憶を下さった方の願いを叶えたりするのですよ」 「ポイント?? 願いを叶える??」 要するに契約とか交換条件などという言葉を使うと、どうしても悪魔のような禍々しさが強調されてしまいます。 ですが、ポイントというと何となくお得な感じがするとバクは言うのですが、どうなのでしょう。 そうすれば『魔族が持つ力』を、人も利用しやすくなるという考え方が魔界のトレンドなのだそうです。 確かに魔族と契約というと、童話や小説でもよく描かれるように、悲劇的な結末しか思い浮かびません。 「何なら、お試しで私の力をお見せしましょうか?」 「お試し?」 「どうやって?」 「消したい記憶、あるいは必要のない記憶があれば、私が引き取りましょう」 そう言われて私たちは、要らない記憶について考えました。 が、そういうものはなかなか無いものですし、急には思い出せもしないものです。 「うーん。あ、そうだ!」 「何なに?」 「昨日見たお笑い芸人のネタを忘れよう。こんなのでもいいかな?」 「はい、OKですよ」 引き取ってもらう記憶は、昨夜テレビで観た有名な芸人の必笑ネタでした。 二人で床を叩いて大笑いしたものですが。 バクは夫の頭の上に飛び乗ると、長い鼻のような部分でスィっと記憶を吸い取ってしまいました。 「ねぇ。どう?」 「うん、別になんとも」 「昨日の夜、二人でテレビを観て爆笑したネタ覚えてる?」 「観たのは覚えてるけど、誰が出てたかハッキリは思い出せないんだよ」 「ハムスターズのネタは?」 「ハムスターズ出てたのか。観たかったなぁ、って観たんだっけ」 「うん、こういうネタ」 私は拙い演技力で昨日のネタを再現してみせました。 すると夫とバクは大爆笑。 「わははは、お前、一流の芸人になれるよ!」 夫は涙を流しながら転げ回っていました。 その後バクは、記憶をポイントに交換してもらうといってどこかに行ってしまいました。 そしてしばらくして帰って来たときには、別の『魔』を伴っていたのです。 「お待たせしました。さっきのポイントを願い事に変えてくれる魔を連れて来ましたよ」 その姿を見て私たち夫婦は驚きました。 バクとは違い完全な人型なのですが……。 背は高く、黒い体に頭に生えた角。コウモリのような翼に、尖った尻尾。 どこからどう見ても悪魔としか形容できません。 「今回のポイントはコレくらいになりましたから……」 悪魔が持つ計算機にバクは数字を打ち込みました。 「バクが20%で、交換の手数料が5%、俺の取り分が75%。という事は俺はこれくらいだな」 「はい、お願いします」 「え、75%も取っちゃうんですか?バクが可哀想な気がしますが」 「何を言ってるんだ。願いを叶える者の方が労力もコストもずっと掛かるに決まってるだろう」 「まぁ、それもそうですね」 笑顔の三白眼で睨まれてしまっては、夫も私も同意の言葉以外出て来ようはずがありません。 「で、どんな願いをするんだ?と言っても、これっぽっちのポイントでは手配り用のティッシュの価値もないが」 「うーん」 「肩凝りくらいなら治してやるぞ。一日分だが」 「あ、あたし肩凝り治して欲しい!」 「いいだろう。明日には元に戻っているが、今日一日は苦しみから解放されるがいい」 「あの、引き取ってもらったのは俺の記憶……」 私はその日、学生時代から悩まされていた肩凝りから完全解放されました。 肩凝りを気にしなくていい。それは物事に対する集中力や、行動力まで向上するようです。 それだけに翌日、その肩が元に戻った際の倦怠感ときたら……。 また何か消してもいい記憶はないかと探したくなるのはいうまでもありませんが、しかしそれは絶対やってはいけないこと。 どんな些細な記憶であっても、それを失うというのは自分という独自の存在を消してしまうことにつながっていくからです。 バクは、例の悪魔や他の妙な姿の魔に誘われて、時々は出かけたりしますが、今のところ我が家に逗留したままです。 部屋の隅から話し声が聞えてくる事もありますが、いったい誰と何の相談をしているのでしょうか。 そういった事も特に気にならなくなったある頃、私の人生を大きく変える一本の電話が舞い込んできたのでした。 電話は病院からです。 夫が事故に巻き込まれ、意識不明の重体とのこと。 これからの処置について家族と相談したいというのです。 慌てて病院に行ったのですが、結局は時間の問題だという説明を受けただけ。 手の施しようがないと、医師は慰めの言葉と供に、私に告げました。 電話口で話を聞いた段階でそんな気はしていました。 ですから、今回バクには一緒についてきてもらったのです。 悲しんでいる暇はありません。 今の私に出来る事。 覚悟はとうに出来ていたのですから。 「本当にいいんですか?そんな大切な記憶を」 「それくらい大切な記憶でなければ、ポイントが足りないんでしょ」 「ご主人が元に戻られても、出会った頃の思い出が無いなんて、とても辛いと思いますよ」 「今ここで彼を失うこと以上に辛いことなんてあるはずないじゃない」 「わかりました。ではおっしゃる通りに致しましょう」 「じゃ、お願いね」 バクは私の頭に飛び乗りました。 私は出会った頃の事を思い出し、バクはそれを逐一吸い取っていきます。 彼の言葉を思い出せば、それを。 私の言葉に応える彼の笑顔を思い出せば、それを。 彼と見た景色を思い出せば、それを。 その時彼に抱いた感情を思い出せば、それを。 思い出す度に吸い取られ、それらはもう二度と私の頭の中に蘇ることはなくなるはずです。 一通り記憶を引き取ったバクは、それを持ってポイント交換所へと飛んで行きました。 「急いで帰ってきますからね」 大切な思い出をすっぽり失ったのですが、何を失ったのかすら私は覚えていません。 ただ、縁があって彼と結婚したことは変えようのない事実で、彼と二人で築いてきた暮らしまで忘れてしまったわけではないのですから。 バクは交換したポイントを持って、再び現れました。 傍らにはあの悪魔みたいな奴を伴って。 「で、彼を元通りにしてやればいいんだな」 「はい。今回のポイントをお渡ししておきますね」 「ほう、こんなにか。なかなかやるじゃないか。これだけあればお前もレベルがひとつ上げてもらえるんじゃないか?」 「かもしれません。それより急いで下さい。彼の容態が今より悪くならないうちに」 「わかった。まかせておけ」 彼の容態は、その直後からみるみる改善していきました。 診療に当たっていた医師は頭を捻ってばかり。 結局、自らの診察技術の未熟さを恥じては、謝罪を重ねていただけでした。 実際には誤診などではないので、私としては心苦しい限りです。 数日のうちに彼は退院することができました。 改めて考えてみても、魔の持つ力には関心しないではいられません。 バクはといえば、彼が完全に回復したのを見届けてから、私たちの前を去って行きました。 本当は、実は彼らがみんなグルで、ポイントのために私たちを利用したんじゃないかと考える節がなかったわけでもありません。 ですが、私も何かあれば魔の力を利用しようと思っていたのも事実。 こうなったのは自分たち自身の責任で、今回の事はそれがための対価だったのかもしれません。 あれから私は、元気になった彼との、再び訪れた『出会い』を心から楽しんでいます。 もともと彼が好きで、自分の結婚相手として選んだくらいなのですから、一緒に暮らしていて楽しくないはずがありません。 日々感じる新鮮なトキメキには、感謝より他ないのです。 おわり
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