井川慶太

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井川慶太

仕事を退職した日、井川慶太の上司である大塚はでっぷりとした腹を揺らし、嫌味をタップリと塗りたくった言葉を浴びせて、慶太の私物を詰め込んだダンボールを押し付けた。 「お前みたいに根性の無い奴なんか行ける場所なんざ無いからな」 確かにそうかもしれない。 毎日毎日言われ続けた言葉だ。 ただ心がポッキリと折れたあの日から、この上司の言葉は耳から入っても脳からは滑り落ちてしまうのだ。 俺は無能で無価値で無意味な人間なのだろう。 誰も助けてなんかくれやしない。 「今度の契約はきっちり取ってこいって言っただろうが。準備がたりないんだよ」 あの日もガミガミと怒鳴られた。慶太は俯いて、長い地獄が終わるのをただ只管待っていた。 今回の契約のために家に持ち帰ってまで準備をした。 夜まで連日残業もした。 ただプレゼンの日、慶太は風邪を引いてしまったのだ。 代わりをお願いしても、大塚は通販サイトを開いたパソコンから慶太を見上げて「俺は暇じゃねえんだよ」と言い放ち、相手にもしてくれなかった。 熱で朦朧とした商品説明を相手はどんな気持ちで聞いていたんだろう。 人の良さが滲みでた白髪交じりの担当滝田にはだいぶお世話になった。 「すまないね、こんなもんしかなくて」と、帰り際渡された栄養ドリンク剤を見て、思わず涙を零してしまった。 契約は取れなかったが、滝田の精一杯の優しさだったと思う。 その優しさが慶太の心を折ってしまった。 あの臭い息を放つだけの生き物である大塚よりずっとずっと胸を抉られた。 「もう辞めよう」 その日の帰り、いつものスーパーで割引の惣菜とビールを一ケース買う。 いつもは躊躇うサキイカもカゴに放り込んだ。 大して強くもないくせに苦い炭酸を喉に流し込みながら、少しだけ残っていた男としてのプライドも全部投げ捨てて、ボロボロ泣きながら辞表を書いた。 出した日は、一時間以上閉じ込められてギャンギャン叫ぶ大塚の言葉を聞き流しながら、滝田が苦しそうに眉を寄せた顔を思い出していた。 あんな暴力的な優しさがあっただろうか。 自分はちっぽけな存在で、あの優しさに憐れまれていた。 でも滝田は慶太を救ってはくれないのだ。 それが現実だった。 「俺なんかのために、誰も何もしてくれる訳ない」 ああ、生きるとはなんだろう。 会社を辞めてからは何もする気が起きず、ただひたすら惰眠を貪った。 起きては塩の効いたツマミをあてに苦いアルコールを喉に流し込む。 脳味噌が溶けているようだ。 ドロドロびしゃびしゃと、耳から鼻から流れ出て、この寂しい六畳間の薄い布団の上で干からびて死にたいと思った。 ただそう思うたびに、あの苦しげな瞳を思い出す。 救ってもくれないくせに。 ただただ憐れんでいるだけのくせに。 それでも都会で触れたあの優しさは猛毒のように体に回って力を奪うのだ。
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