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そうだろうか。
いや、そうなのかもしれない。
幾千幾万幾億の命が蠢いては交わり生まれては消えるこの世界で、個人が他人にどれほど意識されているだろうか。
少なくとも周りのほんの一握りの生き物しか慶太を知るものはいない。
そのほんの少しの人間が例え言葉を刃にした所で、慶太は世界から不要とされたわけでもない。
ならば無意味で無価値としたのは結局自分自身で、誰もそんなこと決めてもいなかった。
そうか、俺が嫌いなのは俺自身だ。
そんなことさえ分からなかった。
ゆったりと細い腕を慶太の首に回して、露香は肩に顔を埋めた。
ひんやりとしたした肌がなんだかとても暖かい。
『露香は慶太、大好き』
うざったく思っていたのに、無視しないで、いつも気に掛けてくれたもの。
突然視界に眩い光が溢れ出した。
暑い夏日だ。
空は抜けるように青い。
湿った土の匂い、大きな葉っぱの影、真っ赤に実ったトマト、長く伸びる胡瓜の蔦、モサモサと葉を茂らす紫蘇、紫の体を太らせた茄子。
汗に濡れた青年の背中が見える。
小太りな体を揺らして籠に野菜を収穫しているようだ。
白くてしっとりとした女性の手が伸びた。黒い艷やかな髪を揺らして彼のもとに駆け寄っていく。薄茶の打ち掛け姿の大人の女だ。
青年が振り返ると、顔に並んだつぶらな瞳が細くなった。
見知っている顔だ。
「大塚さん?」
いや、彼とは違う。こんな優しい笑顔を見たことはない。でもそこかしこに面影があった。
何事か二人でにこやかに話をしているようだ。キラキラと朝露が煌めく。
女性は振り返ると、深々と頭を下げた。
途端涙が頬を伝う。胸いっぱいに広がる……寂しさとそれ以上の感動がそこにあった。
きっとさほど遠くない未来だ。
慶太はそっと目を開く。
眼の前に眩しそうに微笑む滝田の顔があった。
その頬には優しい雨のような雫が流れて落ちていく。
俺もいつか露香を見送るんだろう。
その日滝田のように涙に濡れるのは今度は自分のはずだ。
慶太は滲む視界を乱暴に拭った。
「まあ、そんなところで今日は帰りますね」
玄関先で踵をスニーカーに押し込んだあと、鈴音は厳しい顔をした。
「塩気の多いものはこれからも食べすぎないように。露香さんは仮宿の体に影響されます。塩気は彼女の水分を奪ってしまうんで」
段々と小さくなった露香を思い出し、肝に銘じる。
まさかしつこく「塩分塩分」と言われていたことが、露香に関係があるとは思わなかった。
これからは野菜を中心に自炊しないと。冷蔵庫にはトマトや胡瓜が今はもう入っている。
先程大家がお礼にと沢山持ってきてくれたのだ。
露香はそれをキラキラとした目で見つめていた。
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