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ピンポーン
普段は滅多に鳴ることのないチャイムが鳴った。
ついでドンドンと叩く音が響く。その余裕のない様子に肩をビク付かせてそっとドアスコープを覗けば、アパート隣に住む大家のお婆さんが白髪を乱してこちらを睨みつけているのが見えた。
まだ今の所家賃は滞納していないはずなのに。
冷たい汗が背中に流れるのを感じながらゆっくりとドアを開けると、仁王立ちの大家がギロリとこちらを見上げた。
「あんたかい?うちの畑を荒らしたの?」
「はぁ?」
大家の庭には自家菜園がある。
このお婆さんが朝早くから草むしりをしたり、ジョウロで水をあげている様子が慶太の部屋からよく見えた。
だが、わざわざ大家の畑を荒らす店子がいたものか。慶太はそれこそ無職だ。追い出されたら行く場所もない。
「無職?クビになったのかい?通りで最近家にいると思ったよ。イライラこっちにぶつけられると困るんだけどね」
「そんな……どうして……俺本当にしてないです」
「はっ!あんたの窓の外にうちの胡瓜がぐしゃぐしゃになって落ちてんだよ」
ズルズルと引き摺られる様に外に出ると、なるほど慶太の部屋の窓の下に青く実った胡瓜が足で踏み潰された様な姿で何本も転がっている。
「あの……!でも、こんなことしたら俺が疑われるって分かるじゃないですかっ。正直金もそんなないのに、踏み潰すなんて……。盗って食べるんなら分かりますけど……」
大家のギョロギョロとした目に怯えてしまって後半は声が小さくなってしまう。が、慶太の言葉に「ふん」と鼻を鳴らした大家はやっと納得したようだった。
「もしあんただったら……すぐに追い出すからね」
弛んだ瞼の向こうでギラギラと眼球を光らせる大家に思わず背筋が凍る。
まさかこんな大家だとは知らなかった。
畑弄りをしている背中はいつも小さくて、時折寂しそうに見えていたのに。
人間には二面性があるというけど、目の当たりにするとこれほど恐ろしいものはない。
「はぁ」
ドスドスと足を踏み鳴らして帰っていく小さな白髪の鬼女を見送り、溜息を零して家の方へ振り返った。
ふと黒い影がモゾモゾと蠢いている。目を凝らせば窓の下にあの着物の少女がいた。
地面に顔をつけ、貪るようにあの潰れた胡瓜を食べている。
顔を上げた彼女の着物はぐっしょりと濡れていた。ドロリと胡瓜と泥が混ざった物が口の周りを流れておちる。
少し開いた唇の向こうに舌と思しき長い肉が見えた。みっしりと舌の上いっぱいに白く細い歯が生えている。
黒い玉の瞳を少し細めて口の周りを雑に着物で拭い、そして何も無かったようにザリザリと音を立てて地面に顔をつけた。
……もしかしたら、俺のせいなのかもな。
あの訳の分からない生き物を連れてきてしまったのは間違いなく自分なのだから。
本当に俺ってやつは……俺は……何のために。
いつもの問いが頭を巡る。
しかしいつだって答えなどは出ないのだ。
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