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南條巽(なんじょうたつみ)は、おでかけ前から早々に緊張していた。
用意した「差し入れ」をもう一度確認し、財布の中身を確認する。お小遣いは昨日下ろしてきたばかり。鏡を見て髪を整える。やっぱり切ってくればよかった……と残念に思いながら、夫がくれた、ハムスターの飾りがついたヘアピンで前髪を留めた。準備万端だ。
「せんせー、準備できたよ! 先生は?」
「おれもできたよ」
と、夫、南條成市郎(せいいちろう)の声。南條はリュックを背負い、巽の背中をそっと押した。
「じゃあ行こう、巽くん」
二人は顔を見合わせて、うなずきあった。
そして南條夫妻は、繁華街三宮にある大型新刊書店を目指したのだ。
本が並ぶ空間を抜けたところに、作家、坂木倫太郎のサイン会会場がつくられていた。整理券をもらい、二列に並ぶファンの人々。みんな手に、新刊の『永遠に向日葵を』を持っている。新刊を買うことがサインをしてもらう条件で、巽も先ほど夫といっしょにゲットしてきたばかりだ。
ものすごい行列の最後尾に並び、巽のそわそわが加速する。
「すごく並んでるね、先生。サインもらえるかなあ」
「確かにものすごく並んでるな。でも整理券をもらったし、たぶん大丈夫だとは思うが……」
巽はファン層を観察してみる。中高年の男性が多い。硬派な文体と作風が受けるのかもしれない。だが、女性もけっこういる。巽はこそっと夫に囁いた。
「この前映画化された『天使の側近』、女性にものすごく人気だったんだって。本もベストセラーなんだよ。おれも、坂木先生には珍しいロマンチックな作風で夢中になっちゃった。坂木先生、新境地かなぁ?」
「そうだな。おれも読みながら、巽くんに恋したときのときめきを思い出したよ。今も可愛くてときめくけどな」
「せ、先生ったら~!」
こっそりいちゃつく南條夫妻である。笑いあっていたら、ふと、「秘書さん、今日はいるかなぁ?」と話し合っている女性たちの声が聞こえてきた。
いちゃいちゃしつつも観察を終えた巽は、バッグの中をもう一度点検する。
「差し入れ……ちゃんと入ってるよね……」
「お、巽くん。列、動いたぞ」
最前列から、きゃーっと女性たちの歓声があがった。巽は期待と緊張のあまり胸を押さえて、深呼吸をひとつ。
「おれ、坂木先生のお顔、知らない。どんな方なのかな?」
「お会いするのが楽しみだな」
そんなことを話し合いつつ、二人の順番がやってきた。
○
新刊のポスターと書店が用意した頑丈な机の前に、なにやら大きくて、骨太な男性が座っていた。南條先生と同じくらいおっきいかも、と巽は思う。
しかし。その姿は、南條とは正反対だ。ぼんやりした眠そうな目に眼鏡をかけ、口元にはほわほわした笑顔。たいしてハンサムではない。どことなくくたびれた、「ふつー」のおじさんである。スーツを着慣れていないのか窮屈そうにしているし、顎には髭剃りを失敗して切った痕があった。
なんだか思っていた人と違うなあ、と巽は思う。硬派な文体と作風から、もっとシャキッとした凛々しい人を想像していたのだ。
でも――よかった、優しそうな人で。気難しくて怖い人だったらどうしようって思ってたもん。そう安堵してほっと息を吐いた巽は、視線を坂木の後ろに向けて――ドキッとした。
やたらと美しい顔をした、しかし目は殺人的に鋭い青年が、影のように立っていたのだ。
背が高く、黒髪短髪にビシッとスーツを着こなして、一見「その筋の者」か「SP」だ。眼鏡を掛けているから眼力は少し抑えられているが、それでも怖い。怯えた巽は、さっと坂木の顔に視線を戻した。
――落ち着く。
干したてのお布団みたいな坂木の存在に安堵し、巽は胸に本を抱え直した。
しかし、坂木は坂木で怯えているらしい。巨体強面、ボタンダウンシャツの胸元がぱつんぱつんの南條を見上げ、
「あの、きょ、今日は、お、お越し下さりありがとうございました……っ。サ、サイン、でよろしいのでしょうか……?」
こっちはこっちで、南條を「その筋の者」と勘違いしているようだ。南條はそんなことは慣れっこのようで、穏やかに微笑んでいる。
「サイン、ぜひお願いします。こちらは、わたしの妻です。先生の作品、デビュー作の『屈曲の乙女』から愛読しています」
巽も慌てて本を掲げた。
「おれも、坂木先生の作品が大好きです! 特に、ミステリーが。今度の作品もミステリーだということで、楽しみにしています!」
「あ、ありがとう、ございます……」
まだ怯えている坂木である。そのとき、あの「超絶美男で超絶怖い」青年が、坂木の背後からこう囁いた。
「坂木先生、この方、オメガ支援運動をされている南條先生じゃないでしょうか? 大学教授の……」
「え、あ、あの南條先生!?」
坂木は背筋を伸ばし、その顔は「なんだー安心した」と言わんばかりに弛緩した。
「南條先生のご活躍、いつもテレビや雑誌で拝見しています。とても立派な、社会に貢献する活動をなさっていて、頭が下がります」
本当に頭を下げた坂木に、南條は穏やかに謙遜する。
「いえ、好きでしていることですから」
「本当に、凄いことだと思います。あ、だから奥さんはオメガの方ということですね?」
坂木に見つめられ、巽は恥ずかしくてぺこりと頭を下げた。南條が微笑む。
「はい。大切な妻です。……すみません、みなさんがお待ちなのに長話を」
巽も慌ててトートバッグから差し入れを取り出した。ビニール袋がちょっとくちゃくちゃになっている。
「これ、差し入れの京都銘菓、『ハムスターもなか』です。ハムスターの形になっていて、とっても可愛いんですよ。お召し上がりください」
巽と南條が頭を下げると、坂木と青年も頭を下げる。
「ありがとうございます。いただきます」
にこっと笑ってくれた坂木の笑顔にほっこりして、先生、素敵な方だなあと感激する巽だった。
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