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その後無事にサインしてもらい、巽と南條は自宅の最寄駅のカフェで一服していた。二人とも新刊をゲットでき、サインももらって、憧れの作家と話ができた。心ほこほこである。「今日は本当によかったな」「本、大事にしようね!」とご機嫌だ。
そのとき、柱を隔てて、隣の席に二人組が座ったことに巽は気がついた。声が聞こえてくる。
「あー、腱鞘炎になりそうだよ、せいちゃん」
「普段はずっとパソコンですからね。湿布、買ってきましょうか?」
「それより塗り薬がいいな。おれは、塗り薬派。せいちゃんこそ慣れない眼鏡、疲れなかったか?」
「そうでもないです。掛けてよかったですよ。多少は目のキツさが抑えられますから。伊達眼鏡、侮れませんね」
他愛ない会話だが、声と内容でわかった。坂木先生と、あの青年だ。巽と南條は顔を見合わせる。カフェは土曜日とあり、なかなかの混み具合。坂木と青年はこの席しか手近なところがなかったのだろう。
「……どうしよう、ご挨拶とかしたほうがいいのかなぁ?」
巽がそわそわしながら夫に問えば、南條は考え込んで、
「しかしプライベートでお声がけするのも……」
二人は悩んでしまった。その間、坂木と青年は他愛ない話を続けていたが、青年のほうがふとこう言うのが聞こえてきた。
「サイン会、南條先生とオメガの奥さんが来てましたね」
「そうだな」
「……『バース性』界隈って、いいなって思うんですよね。『同性愛』っていう概念がないから」
「バース性」の人間は――特にアルファとオメガは性別に関係なく番えるため、元々「同性愛」 という概念や、タブー意識が希薄だ。バース性ではない人間たちからも、「そういうもの」と認識されていて、例え同性同士のカップルでも、奇異に見られることは少なかった。
(とはいえ差別感情を持つ人間はどこにでもいるもので、「バース性の人間って、同性愛がフツーなの、キモチワルイ」と陰口を叩かれることも、常にあったが)
青年は続ける。静かに、淡々と。
「もしおれがオメガで、先生がアルファだったら、おれも先生と、堂々と――」
そこで言葉が途切れた。聞こえてくる坂木の、のんびりした声。
「おれはアルファって柄じゃない。美男子で、なんでもできるせいちゃんがアルファっぽいよ」
「掘ってもいいと?」
「むう、それは勘弁」
ひとしきり和やかに笑う二人。坂木が言った。
「おれがどうであっても、せいちゃんがどうであっても、おれは、それでいいからな」
「……はい」
青年の声は、かすかに震えていた。
○
一番星が出ている。
並んで家路につきながら、巽は夫を見上げて言った。
「『せいちゃん』って人、坂木先生が好きなんだね」
「そうだな」
「坂木先生も、せいちゃんが好きなんだね」
「そうみたいだ」
「よかった。せいちゃん、一人ぼっちじゃなくて」
南條はうなずく。妻の白くて小さな手を取った。
「でも、人は誰でも独りだ。独りで旅をしているんだ」
「おれも、先生も?」
「そうだよ。おれも巽くんも、本当は独りなんだよ」
「そうなんだ……」
巽は地面を見て、少し考え込む。南條先生の言うことを理解するには、まだまだ時間が掛かりそうな気がした。しばらく考えた後、話を変えてみる。
「せいちゃんは、ヤクザさんなのかなあ?」
「……いや。彼はおそらく、元刑事だ。お父さんが罪を犯して、『せいちゃん』という人は警察を辞めたんだよ」
「え、そうなの?」
目を丸くする巽。ああ、と南條がうなずく。週刊誌の記事で見た、と。そのまま二人は黙っている。
暮れなずむ空が紫に変わって、星がさらに瞬きはじめた。きれいだね、と巽が言ったら、そうだな、と先生も返した。
同じ歩調で歩きながら、巽は考える。――坂木先生とせいちゃん。恋人同士だなんて、気づく人はいないだろうな。だって坂木先生はほわほわしてお布団みたいな人だし、せいちゃんは――。
巽はぴったりなイメージを思い出した。子どものころ、祖父にもらった海外の絵本。繊細で緻密な筆致で描かれた絵の中で、一際印象的だったものがある。大天使、ミカエルが崖の上に立ち、風を受けながら剣を手に、巨大な翼を広げている絵。
そのミカエルが、せいちゃんにそっくりなのだ。黒い短髪に、銀色のぴかぴか光る鎧を身に着け、白い翼を広げたミカエルは神々しくて、美しかった。やっぱり干したてのお布団と大天使では、まさか恋人同士だとは思われないだろう。
そこで気がつく。
――でも、おれと南條先生もいっしょかぁ。先生はガッチリしてて背が高くてかっこいいし、おれはちっちゃくて頼りない。いっしょだ。
ふふっと笑う。つられた南條も笑っている。
「どうしたんだ?」
「なんでもないよ、先生。あのね、また坂木先生とせいちゃんに会いたいな」
巽は坂木先生の優しい笑顔と、せいちゃんの凛々しい佇まいを思い返す。次のサイン会も、絶対行こうと思う。
「せいちゃん、神様を護って闘う天使みたいにかっこいい人だったね」
そうだな、かっこいい人だったなと、南條も微笑んだ。
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