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気がつけば、村瀬はダイニングのソファに横になっていた。部屋着のスウェット上下を身に着けている。さらに、もこもこのフリースも羽織らせてもらっていた。
目覚めた村瀬がいちばんにしたことは、股間を触って反応していないか確かめることだった。そこは力を失っており、平常心を取り戻している。
よかった、と安堵し、体を起こす。少し目眩がしたが、すぐにおさまった。坂木の姿はない。
……と、あたりを見回していたら、恋人は慌ててキッチンから出てきた。パジャマの上下にフリースを着ている。坂木は村瀬に冷えたスポーツドリンクを手渡した。
「ほんとに、ごめんな。気分は?」
「大丈夫です。おれこそすみません。倫太郎さん、したかったですよね?」
「せいちゃん、優しいなあ。ううん、おれのことは気にしないで」
「でも……」
せっかく求めてくれたのに、応えられなかった。そのことに村瀬は罪悪感を抱いてしまう。だが、坂木のほうが申し訳なさそうに顔を歪めた。
「ほんと、気にしないで。今日は見るだけって約束だったもんな。約束を破ろうとしたおれが悪いんだから」
ごめんな、ともう一度謝ってもらい、村瀬はこくりとうなずいた。ほっとした。そのうえ気まずく、気恥ずかしくなって、村瀬は自分の腹をパーにした手でさすった。
「……大丈夫です、怒ってません。腹、減りました。おやつ、食べませんか?」
坂木もほっとした顔だ。
「ごめんな、ありがとう。おれもお腹空いた。冷凍のたい焼きがあるけど、食べるか?」
「いただきます」
村瀬は少し笑顔になった。
再びキッチンへ向かう坂木。村瀬は努めて深呼吸して、もう一度ソファに横になった。のぼせた体は、今は冷えている。欲情したのが遠い昔のことのようだが、恋人の声を聞いたら再びすぐにでも催しそうになる。だから混乱していた。そんな自分を恥ずかしく思い、ため息を吐く。
――したくないわけではないんだけどな。
ただ、流されることに抵抗があるのだ。遠野先生のときがそうだったからと思って、あの轍(てつ)を踏むまいと身構える。
だが、村瀬は自分でも気がついていた。おれはスケベだ、と。そしてスケベな倫太郎さんと、スケベなことをいっぱいしたい、と。
――たまには、いいのかな。はめを外しても……。
そんなことを村瀬がつらつらと考えている間に、坂木がたい焼きを持って戻ってきた。ミニたい焼きで、白い耐熱皿に四つ載っている。
「お代わりもあるから、いっぱい食べてな」
「ありがとう。……倫太郎さん」
「ん?」
「その……ス、スケベな倫太郎さんも、嫌いではありませんから」
坂木は目をまん丸にして、それから笑った。うれしそうに、幸せそうに、豊かな笑顔で。
「はは、ありがとう。いきなりツンデレ?」
「おれ、ツンデレですか?」
「うん。せいちゃんはツンデレかなあ。あ、でもとびきりデレてくれるときもあって、ツンデレのときもデレデレのときもいつも可愛い。家宝です。せいちゃんは」
村瀬も思わず笑う。
「なんですか、それ」
「せいちゃんに惹きつけられちゃうんだよなぁ。そのきれいで凛々しい顔立ち、鋭い瞳、美しい体、気高い魂。闇を敵とし、闘って、闇を受け入れようと、もがくせいちゃん。その姿と生き様のすべてがおれの宝です」
たい焼きに手を伸ばし、笑う坂木。村瀬も手を伸ばしながら、目には涙が滲んでいた。それには気がつかず、坂木はたい焼きを頬張っている。
「あつつ」
はふはふとたい焼きを食べる姿に、村瀬は笑った。自分も口に運ぶ。驚いて、目を瞠った。
「あ、カスタード」
「そうそう。これ、カスタードたい焼きなんだ。せいちゃんはあんこの方が好きだった?」
「いえ、カスタードも好きです。美味しい」
にこっと笑う村瀬に、坂木もにこにこの笑顔だ。
「護りたいこの笑顔……」
そんなことをつぶやきながらたい焼きを食む坂木に、村瀬は真面目な顔だ。
「おれも護りたいです、倫太郎さんの笑顔」
「ん? ありがと。おれはせいちゃんとこうしてたい焼きを食べてるだけで、にこにこだからさ。心配しないでな」
「……はい」
村瀬が微笑むと、坂木も笑う。二人でゆっくり、たい焼きを食べた。
ところで、と村瀬が二つ目に手を伸ばしながら、神妙に尋ねる。
「風呂でしてたことの続きは、いいんですか?」
「え……! あ、い、いや。せいちゃんに無理させちゃったしなー」
露骨にそわそわしはじめる恋人が面白く可愛い。村瀬は真面目な顔で、坂木の腿に片手を乗せる。
「『人間椅子』がしたいなら、ベッドで騎乗位はどうですか?」
「せ、せいちゃん……! きょ、今日は妙に大胆だ。大丈夫か?」
「大丈夫じゃないですよ。確かに今夜のおれは、ちょっと変です。でも、狂いたい。たまには」
坂木は真面目な顔になって、うん、とうなずいた。
「たまには狂おう。それも大事だよ」
村瀬は恋人の口元についたカスタードをそっと舌で舐めとって、
「いつもマトモでいるのは、疲れますから」
そうつぶやくと、坂木は優しく微笑んだ。
「せいちゃん、いつもマトモでいなくちゃって踏ん張って、がんばってるもんな。そんなせいちゃんを、おれは崩したいんだ。壊して、どろどろに甘やかして、せいちゃんが自分自身や、しがらみを忘れて狂ってるところが見たい。おれにはどんな力もないけどさ。でも、なにもできないけど、愛することならできる。体の相性は最高だと思うから」
「……結局、猥談ですか」
目を擦り、村瀬は笑う。
「ありがとう、倫太郎さん。おれのマトモは、ネジをきつく締めすぎたマトモです。締めれば締めるほどネジは擦り切れ、ネジ穴は潰れる。マトモになろうとがんばるぶんだけ、狂気に近づいていく。それがおれです。だから……ありがとう」
「うん。たまには適切に狂わなくちゃな」
顔を見合わせて笑った。
最後のたい焼きを食べきって、どちらともなく指を絡めた。カスタード味のキスをしながら、ソファの上でもつれあう。
どんどん狂っていく自分が、今夜の村瀬はことさらにうれしい。
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