思い出なんかは無いけれど

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思い出なんかは無いけれど

 三月上旬の日曜日。村瀬清路の元同僚が、坂木家を訪ねてきた。 「いいお宅だな」  あたりをきょろきょろ見回しながら、安野裕樹(あんのひろき)は客間――座敷に腰を下ろす。村瀬は茶托に載せた湯呑に玉露を注いで、慎重に安野の前に置いた。 「ありがとう、安野」 「一人暮らしじゃないそうだな。作家の、坂木さんと暮らしてるとか。坂木さんは?」 「今、仕事で外に出てる。先生に用事か?」 「いや、ご挨拶しておこうと思っただけ」 「『安野さんによろしく伝えておいてな』とは、坂木先生からは言われてる」 「お。こちらこそ、坂木さんによろしく伝えておいて」  安野がにこっと笑うと、村瀬もかすかに微笑んだ。  安野裕樹は、村瀬の兵庫県警在籍時の同僚だ。殺人や強盗事件などを扱う捜査第一課の、第三強行犯捜査第七係で、中島係長の元で捜査に当たっていた同期である。  年齢は同じ二十八歳なのだが、容姿や性格は全然違った。  村瀬は凄みのある美貌の持ち主で、相手を怯えさせる鋭い眼力に、クールで硬派な性格が人目を惹く。県警内では、女性たちに「かっこいい」と憧れられる一方、その冷徹ぶりがかえって敬遠されたり、ときには「なにを考えているかわからない、冷血」という理由で陰口もたたかれていた。要は、近寄りがたい存在だったのだ。  対する安野は、これといった特徴のない平凡な顔立ちである。身長は一七五センチで、ちょうど平均くらい。ただ、愛嬌がある笑顔が印象的だ。明るく輝く瞳が人の心を惹きつける。表情に才知のきらめきがあり、頭が切れて、実際に安野は優秀な刑事だ。  それに開けっぴろげな性格が、とにかく愛されるキャラクターなのだ。老若男女に関わらず慕われるし、被害者や遺族だけでなく、加害者から話を聞き出すのも上手い。  ということで、村瀬は「陰」、安野は「陽」とみんなが思っていた。村瀬もそう思っている。ただ、彼だけが唯一、「安野はなにを考えているのかわからない」とも思っていた。  愛想のいい顔の裏側に得体の知れない「なにか」があるように、村瀬はずっと感じていた。 「突然会って話がしたいなんて、驚いた。どうしたんだ?」  村瀬が玉露を飲みながら尋ねれば、安野は気軽にうなずく。 「ああ、村瀬が警察を辞めてどうしてるのかなって、気になってたし……」 「そういえば、おまえはわりとおれのことを気にしてるよな。いっしょに働いていたころは、『メシは食ったのか?』『寝てるか?』『家、帰れてるか?』とか訊いてきて」 「それは仕方ない。おれは村瀬より五日お兄ちゃんだからな。弟のことは気になるだろー」 「弟になった覚えはないんだが」  あくまでクールな村瀬に、安野は笑っている。 「相変わらずだな、そういうクールなところ。そうそう、香澄(かすみ)が『村瀬さん、元気かな』って言ってたぞ」  村瀬は桜餅を勧めながら、自分でも一口食べた。 「ありがとう。おれは元気だよ。奥さんこそ、元気か?」  安野も桜餅を一口食べる。 「ああ、元気。って言っても、娘がおてんばでさ。毎日バトル」 「二歳だっけ? 海外では『テリブル・ツー(恐るべき二歳児)』って言ったりするよな。やっぱり、そのころが大変なんだな」 「大変じゃないときなんてないわよ! ってこの前キレられた」  わざとらしく肩を落とす安野に、村瀬は笑っては悪いと思いつつ、笑っていた。 「安野は育児とか家事、手伝ってるのか?」 「仕事であんまり手伝えてない。娘と遊んだり、お風呂に入れたりはしてるけど、なかなかな。村瀬は、結婚の予定は?」 「ないよ」  刑事だったときに積んだ訓練が幸いした。村瀬は表情を変えず、言葉にも詰まらずに答える。お茶を飲んで、安野は考え深げな表情だ。 「刑事だったときから、浮いた噂は全然なかったもんな。おれは、村瀬のプライベートは知らないし。カノジョ、いないの?」 「いない」 「そっか。こんないい男がなぁ。もったいない。世間の人間って見る目ないよなー」 「からかうな」  お、気づいたか? と安野はニヤニヤする。村瀬は露骨にため息をついた。安野といると、ペースが乱されがちになって困ってしまうのだ。  ということで、ペースを元に戻そうと村瀬が本腰を入れて本題に入った。
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