思い出なんかは無いけれど

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「ところで安野、うちに来た理由はなんだ? こんなどうでもいい話をしにきたのか?」 「どうしてるのか気になってたって言っただろ? 顔を見にきたんだよ。それから、これ」  いつの間にか、安野はリュックから取り出した茶封筒を座卓の上に置いていた。一瞥して、村瀬が怪訝な顔で問いかける。 「これは?」 「たぶん、おまえのじゃないかなって」  村瀬は封筒を掴んで、手のひらの上に中身を落としてみた。出てきたものに目を瞠る。 「……原チャの鍵だ」  鍵と、そこにメタルプレートのキーホルダーがくっついている。  そう、とうなずいて、安野はお茶を飲み干した。 「それ、県警のオフィスでロッカーの掃除をしてたら出てきたんだ。キーホルダー、おれがディズニーに行ったときのお土産にあげたやつだろ?『蒸気船ウィリー』の。それ見て、ピンと来てさ」  名推理だろ、と笑う安野に、村瀬は手のひらに乗せた鍵をまじまじと見ている。 「探してたんだ。これを失くして、今はスペアキーを使ってる。ありがとう。……このキーホルダー、おまえがくれたんだっけ?」 「覚えてないのかよ。けっこう喜んでたぞ。『おしゃれだな』って」 「……悪い。ありがとう」  安野は明るく笑った。からっと、爽やかな初夏の風のように。 「おれも持ち主の元へ返せてよかったよ」 「……なんだ。ほんとにちゃんとした用事があったんだな」 「ん? どういう意味だ?」  ここで、村瀬は言うかどうか迷った。だが、安野もどうせきっと知ってるのだろうと思った。陰ではなんて言われているかわからない。嗤って、蔑んで、汚らわしい冗談のタネにでもしているのかもしれない。  そこまで考えて、村瀬はこう思った。  ――いや、安野は、そんなことはしない。きっと。  なにを考えているのかわからないが、悪いやつでも、卑劣なやつでもない。そんな気がしている。元刑事なりの人間観察、洞察の結果だった。  だが、口に出すときは、それなりに緊張した。村瀬は静かに安野の目を見据えた。 「なあ、安野。知ってるか? おれが、坂木先生と恋人同士だって噂」  安野は少しだけ難しい顔になって、その特徴のない顔立ちに、かすかに機知と気遣いのようなものが閃いた。 「ああ。実は、噂では聞いてる」 「やっぱりな。それを確かめにきたのか?」  安野はしばしうつむいて、次に顔を上げたとき、その目は聡く鋭かった。 「恋人同士だっていう『事実』を確かめにきたわけじゃない。おまえが元気にしてるか、つつがなく生きてるか、っていう『事実』を確かめにきた。それだけだ」 「全然、つつがないわけではないけどな」  村瀬が苦笑すると、安野も笑う。 「ネットとか週刊誌とか、メディアではいろいろ言われてるな。……でも、おれも『天使の側近』、読んだぞ。よかったよ」  村瀬は不覚にも、目が潤みそうになった。 「安野、読書苦手なのにな」 「うるせーよ」  安野は屈託なく笑って、 「でもまぁ、元気そうで安心した。鍵も返せたし。なにか困ったことがあったら、言ってこいよ。……って、もっと早くに言っておけばよかったんだけど……村瀬、急に警察辞めたし、いくら同期で同僚でも、それほど親しいってわけでもなかったしな。なんだか、言いだすのにためらっちゃってな」 「……そうか。気持ち、うれしいよ。ありがとな」 「お、『皆殺しの天使』って意外と素直だったんだな」 「うるさい」  二人で笑う。  そのとき、村瀬は突然気がついた。愛想のいい安野の顔の裏側にある、「なにか」。その「なにか」はもしかしたら、村瀬に対する「なんとなく気になる」という感情なのかもしれない。自分でもなぜ気になるのかわからない、それでも気になる、そんな感情は村瀬も経験したことがある。問答無用で惹かれるのだ。そして、仲良くなりたいと思う。例えば話しかけたいと思ったり、同じ遊びをしたいと思う。言葉にすれば「愛情」と「思いやり」だが、そうそう簡単に、単純には発露しない。  それって、優しい兄貴が思春期の弟に対して抱いている、遠慮がちな「かまってやりたい」みたいな感情なのかも? と、村瀬は思った。  そう思うと、反発するよりも、なんだか心が穏やかになる。おれってこんなに素直だったっけ? と、村瀬自身不思議とおかしくなってしまった。
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