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闇を負う人
雨が降り続く中。村瀬清路は書斎の扉を開けると、奥のデスクでパソコンのキーボードを叩いている恋人、坂木倫太郎の広い背中を見つめた。筆が乗っており、今朝の五時からずっとこうだ。
村瀬は坂木に声をかけない。扉の脇にあるテーブルにそっと淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを置くと、静かに部屋を出た。
一階のダイニングに降り、食卓テーブルの椅子に腰を下ろして、愛読書を開く。坂木が八年前に上梓した小説『ソマリアの魔女』。今では稀覯本となっているそれを、村瀬は一頁一頁、大切にめくっていく。
八年前、村瀬は十九歳だった。母の麻里亜は存命で、夫との関係で悩んでいた。
十九歳の村瀬は、母の影響で坂木倫太郎という作家を知った。初めて読んだのが、母の本棚から抜き出した『ソマリアの魔女』だ。
昨日のことのように思い出しながら、村瀬はページをめくる。
雨が降り続く。
「せーいちゃん。なにしてるんだ?」
声が聞こえて、村瀬は振り向いた。坂木がへらへら笑いながら立っている。愛用のマグカップを持って。
「コーヒーありがとう。おかわり注ぎに降りてきた」
村瀬はのろのろと立ち上がり、キッチンに置いたコーヒーメーカーへと歩いて行った。電源を入れ、坂木からマグカップを受け取る。背中のほうから、坂木の声がした。
「せいちゃん」
「はい?」
急に大きな体に抱きしめられて、村瀬はたたらを踏んだ。坂木はぎゅうっと年下の恋人を抱きしめ、笑っている。
「せいちゃんは、すぐ我慢するからなぁ。おれに話しかけたかったんじゃないのか?」
集中してたから、ごめんなと坂木が謝ると、村瀬はかすかに声を震わせた。
「……ずるい」
「なにが?」
「とぼけてて、だらしなくて、飄々としてるのに、無駄に洞察力が鋭いところ、ずるいですよ」
「ほとんど悪口だな」
坂木は自分の頬を掻く。村瀬は、ぐいと突き放すように坂木の胸を押した。
「いいんです。おれは、坂木先生の秘書。先生が仕事に集中してくだされば、それで」
「うん、確かに仕事が早く終われば自由時間も増える。一週間後には、たぶん仕事も終わってる。そしたら、映画でも観に行かないか?」
村瀬はこくりとうなずいた。坂木はよしよしとでも言うように、村瀬の背中を撫でる。年上の男の頭は、楽しい週末デートの空想でいっぱいのようだ。弾む声で続ける。
「それから美味しいごはんを食べて、買い物して、お茶して、それから……」
「それから、なにも思いつかない。そんな人生は、おれには幸せすぎます」
鋭い双眸で見据える村瀬に、坂木は微笑んだ。
「泣いていいよ、せいちゃん」
「泣きませんって」
「泣くと可愛いのに」
「鬼畜ですか?」
見つめ続ける村瀬に、坂木は真面目な顔だ。
「強い男が泣くと可愛いだろ。おれは、ぼろきれみたいになって闘ってるせいちゃんが好きなんだ。幸せはおれには向かないって言って、幸せに背を向けて、血みどろで闘ってる君が好きなんだ」
だから、せいちゃん。おれの前では、我慢はするな。
囁く坂木に、村瀬はうつむいてつぶやく。
「ええ。おれは――幸せになることは、諦めています」
――村瀬の父は妻と村瀬を捨てて蒸発し、戻ってきたときには、犯罪に手を染める殺人者だった。旧くから繋がりのある暴力団、晃塵会(こうじんかい)の組長に依頼され、村瀬の父は、妻――村瀬の母の麻里亜も殺していた。村瀬は父を憎み、自らの手で、彼を逮捕したいと願った。それは叶わず、村瀬は殺人者の息子という理由で、警察に居場所を失った。刑事を辞めたおれに価値はないと、村瀬は思っている。
父に対峙したそのときから、村瀬は幸せになることをやめたのだ。
そのことを、坂木は知っている。村瀬の鼻筋にキスした。
「ああ。せいちゃんが幸せにならないって決めたのは、全人類の闇を背負って地に堕ちると覚悟したからだ。おれの闇も、背負ってくれてる。ありがとうな、せいちゃん」
だから、せいちゃんが苦しむ道を選ぶなら、おれはそばにいるからな。ずーっとそばにいるからな。そう言って無邪気に微笑む坂木に、村瀬の頬に涙が流れる。
「あなたは、ずるい」
声が震えて、村瀬は壁に寄りかかった。坂木の手が、村瀬の頬に触れる。大きなその手も、少し震えている。
そのことに、村瀬はとても安心するのだ。
雨が降り続く中で。
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