モーニングには未来を挟んで

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「佳織さん、髪ぐちゃぐちゃのままじゃないですかっ!」  心配して本来の予定より15分程早めに来て正解だった。おなじみの白衣を羽織って椅子に座っている先輩は覚醒と睡眠の間を行き来している。昨日も遅くまで作業をしているのは知っていたけど、これ、殆ど寝てないんじゃないだろうか。 「というか、また寝袋で寝ましたね。今日は大事な打ち合わせだから体調万全にしてくださいって言ったじゃないですか」 「君はそういうけど、大事な打ち合わせだからギリギリまで資料を整えてたんじゃないか」  先輩がうつらうつらとした状態で10枚程度のスライド資料を僕に差し出す。受け取ってみると先輩の研究の専門的な部分が要点をかいつまんでわかりやすくまとめられていた。確かにこれなら資料を見ただけで伝わるかもしれないけど、わざわざ打ち合わせをセッティングしたのは顔合わせをして今後を円滑にするって意味合いもあるわけで。 「それに、もし何かあっても君がなんとかしてくれるんだろう?」  それは、ズルい。  僕だっていつでも先輩のサポートできるわけじゃないんですよ、と頭では思っているのに、急にそんなことをはにかみながら言われたら否定できなくなってしまう。  セットしていたコーヒーメーカーから二人分をカップに注いで片方をふわふわとしたままの先輩に渡す。 「当然僕も頑張りますけど、失敗したくないんです」 「研究なんてものは広く網を張って、一つでも当たりを引いたら大儲けって類のものだと思うけどね」 「それでも、成功させたいんです。佳織さんと僕の初めての共同プロジェクトですから」  大学院を卒業して、僕は民間メーカーに就職すると研究部門に配属された。そして3年目にしてついに先輩も含めた複数社の共同プロジェクトにこぎつけた。といっても、プロジェクトチームで一番経験の浅い僕は研究よりも各社の連絡調整業務が中心になるわけで、どれだけ先輩のサポートをできるかはわからないのだけど。  ただまあ、事前の打ち合わせという名目でこうして打ち合わせの時間より早く先輩のところに来られたのだから、これはこれで役得なのかもしれない。 「……ふふっ」  コーヒーを口に含んだ先輩が突然微笑む。昔から捉えどころがない人だったけど、今日は一層よくわからない。 「そうだね、確かにそうだ。失敗してもいいなんて、君に失礼だったね」  そのままぐっとコーヒーを飲み干して、さっきより少し覚醒した顔でグッと伸びをする。本当はここにホットドックでも詰め込んであげたいのだけど、今日は材料もなければ時間も足りない。 「まあ、今日の打ち合わせが終われば少し余裕もできるし、今夜からはちゃんと家に帰るよ」 「そんなこと言いながらいつも研究室に泊まってるじゃないですか」 「むう。帰ろうと思うと家が遠くてつい億劫になってしまうんだから仕方ないだろう」  あっさりと開き直った。そんなところだろうとは思ったけど、最近は朝食も抜きがちなようだしいつか無理がたたってしまうんじゃないだろうかとこちらは気が気でない。  一つだけ方法は思いついているけど、このタイミングでそれを提案するのはちょっと気が引ける。いや、これはプロジェクトを成功させるためであって。 「あの、佳織さん。一つ提案があります」 「うん?」 「これはあくまでプロジェクトの連絡調整役としての提案であって、決して下心とかやましい気持ちがあるわけじゃありません」 「いやにもったいぶるね」 「僕の家は先輩の家よりずっと大学に近くにあります。僕は朝も夜もある程度規則正しい生活を送れてますから、そこは食事も用意することができます」 「……ほう?」 「つまるところ、しばらく僕の家を拠点にしませんか?」  先輩は小さく目を見開いて、それからしゅっと目を細めて緩やかに微笑む。  そしてそのまま僕の提案に答えることなく立ち上がった。先輩の視線を追いかけると、時計が打ち合わせの時間が近いことを示している。  流石に急過ぎただろうか。先輩の研究環境を整えるためにも理想的かと思ったのだけど、やっぱりそう上手いようにはいかないようだ。  まだぴょこんと跳ねた髪が残ったまま先輩は研究室の外へと歩き出し、僕は慌ててその後を追う。 「遅いよ」  追いついた僕に先輩はそんな言葉を投げてくる。 「すみません」 「そうじゃなくて。ああ、もう。君はいつも仔犬のような顔をするね」  可笑しそうに笑った先輩が僕に向かって手を差し出す。よくわからないままその手を取ると、ぎゅっと握りしめられた。 「その提案をしてくるのが遅いってことだよ。どれだけ私が待ちわびたと思ってるのかな?」 「え、あ、じゃあ……」 「まあ、これからまだまだ長いって考えたら、1、2年くらい誤差みたいなものか。成果を出すには時にじっくり待つことも大切だからね」  先輩がぐいぐいと僕の手を引いて歩いていく。先輩はいつもそうやって僕の遥か先を進んでいくからついていくだけでも大変なのだけど、その手を離す気なんてさらさらない。  いつか、後ろではなく隣に立って、一番近いところから先輩を支えてあげたいと、今でもそう思ってる。 「まずは目の前のプロジェクト。それが終わったら何ができるかな。君と一緒ならなんだってやり切れる気がするから不思議なんだけど、ついて来てくれるかい?」 「もちろん、いつだって、どこへでも。だからこれからも、先輩の目指すところへ僕を連れて行ってください」  ぎゅっと握りしめられた掌が、どんな言葉よりはっきりとした返事だった。
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