モーニングには未来を挟んで

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 7時45分。  大学の研究室の扉を開けると、誰もいない研究室はブラインドの隙間から夏の日差しが僅かに差し込むだけで薄暗い。 ――いや、誰もいないわけではない。  最低限の明かりをつけて研究室の中に入ると、部屋の奥に中身入りの紫色の寝袋が一つ転がっている。 「おはようございます」  寝袋に向かって声をかけてみるけど、返事はない。  いつものことだから特に気にせず、研究室の隅に設けられた給仕コーナーに向かう。ここから先はスピード勝負だった。  年季の入ったオーブントースターに切れ込みが入ったロールパンを4つ並べて電源を入れると、ジリジリと唸るような音とともにいかにも熱してますというような赤い光が灯る。  それを見守ることなく、耐熱容器に水とウィンナーを入れてこちらは電子レンジにかける。そこからくるっとターンして、コーヒーサーバーをセット。  ここまでで一分弱、小さく息をつく。トースターからはロールパンが焼ける香ばしい匂いがふわりと広がり始めていた。  研究室の奥を見ると、その香りに誘われるように寝袋がむずむずと動き出す。  やがて、佳織先輩がぽこんと顔を出した。寝ぼけ眼が僕の方を見ると、目をこすりながらゆるゆると寝袋から這い出してくる。 「おはようございます、先輩」 「おはよう。相変わらず君は朝早いね」  いつものやり取りを交わしつつ、ほわりとあくびをした佳織先輩はフワフワとした動きのまま傍にかけられていた白衣を身に纏い、右に左に揺れながら研究室から出ていった。  その間にピーピーと音を鳴らす電子レンジの蓋を開け、湯気と共にボイルされたウィンナーを取り出す。  パンとは違った香ばしさを漂わせるコーヒーがコポコポとサーバーに溜まる音を聞きながら、保冷バッグから昨晩炒めておいた千切りキャベツを取り出しておく。  後はロールパンが焼ければ準備万端だ。  オーブントースターの前でその時を待っていると、佳織先輩が研究室に戻ってくる。心持ち起き抜けよりしゃっきりしていた。まだぴょこんと髪が跳ねてるけど、それはまあ、愛嬌みたいなもので。 「先輩、朝ごはん食べますよね?」 「そりゃあ、こんなおいしそうな匂いを嗅がされたらね」  へらっと笑う佳織先輩に応えるように、トースターがチンと音を立てる。  こんがりと焼けたロールパンを取り出して、キャベツとウィンナーを挟み込む。研究室の冷蔵庫からケチャップとマスタードを拝借して波を描くと簡単ホットドックの出来上がり。  その頃にはコーヒーメーカーも仕事を終えていて、マグカップに注いで二人分のホットドックとコーヒーを先輩の席まで運ぶ。  準備を始めてからここまで5分。  僕と先輩だけがいる研究室に朝食の香りが漂う。一日の始まりを告げる至福の時間。  いただきます、と手を合わせてホットドックにかぶりつくと、表面がカリッと焼けたロールパンとボイルされたウィンナーがまず弾けると、その旨みをふんわりとした食感と甘みのパンが包み込む。濃厚さがいっぱいに広がると、キャベツがさらりと口の中をさらっていった。 「君もまあ、よく私みたいなのに甲斐甲斐しく世話を焼くね」 「先輩にはお世話になってますからね」  博士課程二年目の佳織先輩は去年研究室に配属された僕と同じテーマの研究課題に取り組んでいて、この一年半、指導教官以上に面倒を見てもらっている。  家が遠いからといって平日は殆ど研究室をねぐらにして過ごす佳織先輩とこうして朝食を食べるようになったのはこの四月、僕が修士にあがってからだった。  何か特別な出来事があったわけじゃないけど、卒論という荒波を乗り越えて僕にも少しは自信がついて、こうして毎朝他の学生より少し早い時間におしかけている。  本当はもう少し余裕をもって来たいけど、これ以上早いと低血圧な先輩は少し機嫌が悪くなる。 「別に先輩が後輩の指導をするのは当然だから気にすることないのに」 「これからも先輩には色々教えてもらわないといけないですからね、先行投資です」 「これからといっても、もう折り返しだろう?」  ぺろりと1つ目のホットドックを食べ終えた佳織先輩がコーヒーを口にしながら小さく首をかしげる。先輩の言う通りあと一年半で大学院も修了することになるけれど。 「僕も先輩みたいに博士課程に進もうと思ってるんです」  正直、大学に入学した頃は大学生活なんて就職までのつなぎだと思っていたけど。佳織先輩と一緒に研究に取り組むようになってから、わからないことに挑む面白さに打ちのめされてしまった。  自分にこんな探求心があったことが意外で、わからないことにハマればハマる程ワクワクとする自分がいた。それは才能を研究に全振りしてるなんて噂される佳織先輩がいたからかもしれないけど、僕はこのままこの道に進んでみたかった。 「やめたほうがいいよ」  意気込んでいた僕に、佳織先輩はぴしゃりと冷や水を浴びせてきた。 「ど、どうしてですか?」 「博士課程にあがってからね、若手研究者というのは研究費的にも給料的にも厳しいって現実が見えてきた。私には研究しかないけど、君にはそれ以外の道がいくらでもあるんだから、もっと広い目で眺めた方がいい」 「でも、僕は……」 「それにね、私のためにも君には大学の外に出てほしいんだ」  佳織先輩は二個目のホットドックに手を伸ばしながら、何でもないようにそんなことを言う。  それに対して僕はさっきまで美味しく食べていたホットドッグの味も、珈琲の苦みもわからなくなっていた。  先輩のことだから無邪気に歓迎してくれるとは思っていなかったけど、ここまであからさまに否定されるとは考えてもいなかった。 「それから、さ」  先輩がホットドックを一口かじる。飲み込んでから、漏れるようなため息。 「これからしばらく、朝からパンはやめてほしい」  今度こそぐっと息が詰まった。  夜遅くまで研究をしている先輩のサポートができればと思って始めたことだったけど、所詮は僕の自己満足でしかなかったのか。いや、先輩がもし嫌々ながら付き合っていたのだとしたら、もっとひどい。先輩の表情は何一つ変わらないけど、やっぱり僕は邪魔なのかもしれない。 「……わかりました。こういうのはもうやりません」  情けないくらい声が震えてる。少し変わったところの多い佳織先輩だけど、僕なら研究と生活の両面からサポートできるかもしれないなんて思っていた。だけど、そんなのは僕の思い上がりでしかなかったのかもしれない。 「……あのね。そんな捨てられた仔犬みたいな顔をしないでよ」 「でも……」 「別に“パンを”やめてほしいってだけで、朝から来るなとは言ってないから」  あれ。  いまいち先輩の言っていることが呑み込めない。そんな僕の様子は先輩もすぐに気づいたようで、少し気難しそうな顔で息をついた。 「君と朝ごはんを食べるようになってから、お腹周りがこう……ね。そりゃ私だって一応女性の自覚はあるんだから、そういうのも気にするんだよ」  その言葉に釣られるように先輩のお腹の方に視線を向けてしまい、先輩はサッと白衣を寄せて隠す。とっさに視線を逸らしながらも、ホッとしたのとその仕草が先輩らしくなくて不意を突かれて、思わず吹き出してしまう。 「いくらなんでも笑うのは失礼じゃない?」 「いえ、すみません。そういうわけじゃ。でも、先輩はもう少ししっかり食べても綺麗だと思いますよ?」  ぐふっと咽る音が聞こえた。ホットドッグの残りを詰まらせたらしく宙をさ迷う先輩の手に慌ててコーヒーカップを握らせる。先輩はまだ熱い珈琲を一気に飲み干すと、不服そうにジトっとした目で僕を見た。 「ほら。君はまたそんなことを言う」 「それに僕は先輩の研究への熱意とかちょっと抜けてるとことか、全部ひっくるめて先輩の後輩でよかったと思ってますから」  褒めてないでしょ、と呆れがちなため息。  それから佳織先輩は僕とブラインドの隙間の外の世界を何度か視線で行き来させる。 「さっきの研究室の外に出た方がいいっていうのも。研究を続けるなって意味じゃないから」  先輩が窓のブラインドを小さくずらすと夏の日差しが入り込んできて、そのまま先輩は眩しそうに外を眺める。 「君は私と違って社交性もあるし、国立でも民間の研究所でも、もっと給料も研究費も潤沢に使えるところに進んだ方が君のやりたいことができると思う。君にそれだけの能力があるっていうのは私が保証するよ」 「買いかぶり過ぎですよ。僕は先輩がいたから、これまで成果を出してこられたんです」  だから、僕はここで先輩と研究を続けたいんです。言葉にはできないそんな想いを視線に込めて先輩を見る。先輩は何かを考え込むようにしながら僕の視線を受け止めて、やがてふっと表情を崩した。 「買いかぶりじゃないさ。こうやって私をサポートし続けられるってだけで君は並大抵の人間じゃないよ」  自虐混じりのはずなのに、なぜか佳織先輩は得意げだった。 「だから君には大学の外に出て、自前の予算をとってこれるような一端の研究者になって。共同研究でも委託研究でもいいから、私の研究をサポートしてほしい」  悪戯っぽい先輩の笑みは、この一年半で僕が初めて見たものだった。思わず見惚れてしまって、それに気づいた先輩が首を横に振りながら「慣れないことはするものじゃないな」とせっかくの表情を引っ込めてしまった。  改めて先輩が正面から僕を見る。ぴょこんと跳ねた髪とはアンバランスな真剣な表情が僕を貫く。 「つまるところ、私の研究を一番理解してくれてる君が外から支えてくれたら、とても心強い」  僕が思い描いた物とは違うけど、先輩と研究を続ける一つのあり方。今まで考えたこともなかったけど、立場の違うところから何かを創り上げるというのはそれはそれで面白そうだった。だけど。 「……でも、それってちょっとズブズブなんじゃないですか?」  研究者倫理の問題というのか、なんかアウトな気がする――でもそれは建前で、もうしばらくこんな風に先輩のサポートをしたいという思いも胸の奥の方でジリジリと火が付いたまま消えそうにない。  そんな僕の内心を知ってか知らずか、先輩はくしゃっと笑うと僕の両肩にそっと手を伸ばしてきた。 「ズブズブの何が悪いんだい?」 「え、と。それは」  先輩が椅子から立ち上がるようにしながら僕に顔を寄せる。  その顔には見たことがない表情が浮かんでいて、視線を外すことができなくなった。 「だって、私はこんなにも――」  先輩の顔が更に近づいてきて、ふんわりとしたロールパンとはまた違った甘い香りが鼻をくすぐる。 ――君にズブズブになのに。  先輩との距離がゼロになって、今感じている甘さとか柔らかさが何なのかわからなくなる。  無限大のような一瞬から僕を現実に引き戻したのは、8時を告げる時計の音だった。その音と同時にガチャリと僕の背中の向こう側で研究室のドアが開く音がして、いつの間にか先輩は僕の肩を放して自分の席に座っていた。 「おーう、相変わらずお前ら早いな」    後ろ側から准教授の声がするけど、まだ頭の中がゴチャゴチャしていて上手く言葉が入ってこない。何か言わないと不自然だけど、普段僕はどんなふうに返してたんだっけ。 「美味しい朝ごはんの最中ですよ」  僕が返事できないでいると、佳織先輩が何でもない調子で准教授に空になったコーヒーカップを掲げた。 「羨ましいねえ、俺にも誰か朝飯作ってくれねえかなあ」 「研究ばっかりしてないで、早いところ料理好きな彼女でも見つければいいんですよ」 「……そんな言葉をお前から言われる羽目になるとは思わなかった」  准教授はそれだけ言い残して研究室の奥の自分の部屋に向かったようだった。二人きりの時間の終わりを告げる毎朝のルーチンみたいなものだけど、今日ばっかりはホッと息が漏れる。  先輩はいつも通りの読み取りずらい表情になっている。これからはいつも通り研究モードになるはずだ。 「ああ、そうだ」  先輩が食べ終えた食器を手に取って立ち上がる。  「君的に共同研究がNGなら、私の家計を支えるという方向はどうだろう」 「先輩、それは」  なんかもっと、深く踏み込んでしまっているような。それこそ、ズブズブに。 「なんてね。ごちそうさま、おいしかったよ」  先輩はふわりと笑うとそのまま流し台の方に歩いていく。すれ違いざま、軽く唇に手を当てて。  顔が熱い。というか、体中が熱い。  先輩の掌で転がされてるのはちょっとだけなんか悔しくて、せめて明日の朝食はクリームたっぷりのバターパンとかにしようと思う。先輩がどんな表情を浮かべるか、今から楽しみだった。  それから――。  大学と共同研究ができるような就職先を、少しずつ調べてみよう。これからも、先輩と一緒に歩けるように。
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