七夕の約束事

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 ***  付き合っていた彼女に振られたのは、つい昨日のことだ。なんで振られたのかともやもやとした気持ちを抱えたまま今日を迎えてしまったものだから、同じナースステーション内にいた先輩看護師、広沢(ひろさわ)さんに「星川、何かあったのか?」と気づかれてしまった。はっと顔を向けると広沢さんはかちゃかちゃとキーボードを打ちながら視線は電子カルテの画面に向いていたが、どうやら話を聞いてくれる態勢ではあるらしい。広沢さんは年齢が一つ上なだけなのに落ち着いているし、数少ない男性看護師ということもあってとても頼りになる先輩で、ついいろんな相談をしてしまう。 「昨日、彼女に振られたばっかりなんです。なんで振られたのか、いまだにわかんないんすよ」  履いていたナースサンダルの爪先をぐりぐりと床に押し当てながら吐き出すように言った。 「あれ? 星川の彼女って、四北の看護師だろ? へー、別れたんだ。喧嘩?」  四階北病棟だから、四北。ちなみに俺のいる病棟は一つ上の五階北病棟、通称五北だ。 「喧嘩というか、昨日たまたま休みが被ったんで、飯作ってもらったんすよ。それがおいしくなくて。まずいって言ったら泣かれました。……って広沢さん、なんで四北の子って知ってるんですか?」 「有名だよ、星川と彼女さん。よく病院の外で待ち合わせして一緒に帰ってるじゃないか。ああ、元カノか。それよりも、飯まずいって言っちゃうのはひどいなあ。頑張って作ってくれたんだろ?」  ちゃちゃっとオムライス作るね、と彼女は言った。俺は作ったことがないけれどオムライスとはちゃちゃっと簡単にできるものなのだろう、と彼女の言葉で初めて知った。卵で包むのと半熟卵乗っけるのどっちがいい、と聞かれたから包んでほしいと答えた。小さい頃母親に作ってもらっていたのがそういう形だったから馴染みがあったのだ。彼女は俺の要望に応えてくれた。だが、チキンライスにグリーンピースが入っていたのがよくなかった。グリーンピースは俺の嫌いな食べ物ナンバーワンだ。一口スプーンですくって、卵に隠れていたグリーンピースを思いきり咀嚼してしまった。だから正直にまずいと言っただけなのに。  その経緯を説明すると、広沢さんは大袈裟に頭を抱えてため息をついた。ぐりぐりさせていた足の動きを止めた。広沢さんの地雷を踏んだ、とピンときた。 「そもそも料理にちゃちゃっとなんてないんだよ。その子の言葉は星川に気を遣わせないためだろ。準備して、作って、片づけしてって、手間のかかる作業なんだよ料理ってのは。星川、ちゃんと料理したことないだろ。したことないから嫌いなものが入ってただけでまずいなんて言えるんだよ」  普段優しい広沢さんが声を荒らげるから俺はびっくりして目を瞬いた。キーボードを叩いていた彼の手はいつの間にか完全に止まっている。足を組んで指でトントンと机を叩いている姿で広沢さんがイライラしていることがわかった。 「広沢さんはオムライス作れますか?」 「……オムライスは面倒だからあんまり作らないけど、一応作れる」  広沢さんが深呼吸をしてから言った。 「男なのに料理するんですね。あー、広沢さんは俺と違って器用だから、何でもできちゃうんすね」  一呼吸置いた広沢さんがいつもの落ち着きを取り戻したことにほっとしながら、椅子の背にもたれて伸びをする。もう少しで休憩時間だ。腹減ったな。今日の食堂の定食は何だろう。 「お前、あんまり男だからとか女だからとか、人前で言わない方がいいぞ」  小声でぼそりと広沢さんにそう言われた瞬間、ふと何かを思い出しそうだったけれど、それが何かわからないうちに水の中の空気の泡のように一瞬で頭の中から消えてしまった。再び思い出そう手を伸ばしても、指の間をするすると水のように逃げていくだけだった。 「それ言ったら看護師だって女性の方が断然多いじゃないか。いまだに看護婦さんって言われることあるだろ?」  確かに、俺だって年配の患者さんに「看護婦さん」と呼ばれたことがある。 思わず「すみません」という言葉が口を衝いて出た。だけど、俺が本当に謝らないといけないのは広沢さんじゃなくて元カノだということもわかっていた。  そのとき、休憩に行っていた何人かの看護師がナースステーション内に戻ってきて「広沢くんと星川くん、休憩行ってきていいよ」と声をかけられた。二人で「はい」と返答して椅子から立ち上がった。 「広沢さん、食堂行きますか?」  尋ねながら、そういえば広沢さんと二人で休憩というのはあまりなかった気がする、と思った。 「いや、俺弁当だから休憩室で食う」  広沢さんはそう言って、にやりと笑いながら手に持った弁当を掲げた。  広沢さんとの会話があって料理に興味が出てきたから、仕事の後、書店に立ち寄った。料理の難しさがわかれば彼女に素直に謝ることができる気がする。自分にどんなものが作れるかもわからないからレシピ本でも買おうと思ったのだが、どれを選んだらいいのか見当もつかないほどの冊数が書棚にきちきちに詰まっている。薄い本、厚い本。写真の多いもの、読み物のように文字が多いもの、イラストが描かれているもの。掲載されている品数の多い少ない……簡単に作れる、ということを売りにしている本でも様々なものがあって、俺は手に取れば取るほど混乱した。  広沢さんのように弁当を作れるようになりたいなと思ったものの、それはまだ難しいのかもしれないと諦めそうになったとき、一冊のシンプルな表紙の本が目に入った。背表紙が棚に並んでいるわけではなくて、表紙が見えるように平置きされているものだった。 『素敵なお弁当タイム』  ふりかけが混ぜ込まれているご飯にから揚げ、卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマトなどが一つの弁当箱にぎゅっと詰まっている写真。表紙の写真やタイトルに目が行ったあと、著者の名前が目に入った。静かな書店だということも忘れて思わず「え」と声が漏れた。 【著者:牧慎一】  牧慎一。あの慎一のことなのだろうか。確かめたくて手に取りたいけれど、躊躇ってしまう。なぜこんなにも動揺しているのか、その原因はきちんとわかっている。  中学のとき慎一をいじめていた友人に加担したからだ。  幼稚園のときのようにかばってあげなかったからだ。  だけど、俺だって仲間外れにされるのは怖かった、と言い訳のように思う。  あの頃は、仲間外れにされるというのは世界に一人取り残されるくらい心細いものだと思っていた。学校という狭い世界がすべてだと思い込んでいて、学校で、クラスで、目立った存在でいないと自分が否定されてしまうと感じていた。だから髪を明るく染めて肩の辺りまで伸ばした。ネクタイを緩めて、制服のブレザーじゃなくてパーカーを羽織って、そういう派手なことをしていないと当時の友人の男子たちは俺から離れていってしまうと思っていた。  男だからとか女だからとか、人前で言わない方がいいぞ。  広沢さんの言葉がよみがえってくる。あのとき、背筋に痛みが走ったように感じた。思い出したくない過去に無理やりメスを入れられたような。  今、ようやくわかった。家庭科の調理実習だ。  慎一が料理上手だとわかった髪をツンツンと立てた俺の友人が「女子みたいで気持ち悪い」と言った。俺はそのとき、友人と一緒になって笑ってしまった。笑うしかなかった。  忘れていたはずのその瞬間の慎一の表情が、今、鮮明に思い出される。  楽しそうに女子と話していた表情がこわばり、顔を俯け、まるで涙をこらえるように唇を噛んでいた。  あのときからかうのをやめろと言っていれば、慎一との関係は何か変わっていたのだろうか。どこかで謝っていれば、慎一とは今でも友達でいられたのだろうか。  そんなことを悔やんでも意味がないのに。謝りたいと思っても謝るチャンスなんてもう逃してしまったのに。  本を買うのはまた別の日にしよう。そう思って帰ろうとしたとき「佳、彰?」と名前を呼ばれた気がした。たどたどしく名前を呼ぶ聞き馴染みのない声に、不審に思いながらも顔を上げる。  目の前に、慎一が立っていた。  記憶の中にいる慎一よりも大人びた慎一が、目を瞠っている。  視界が、どろりと歪む。 「慎一……?」  慎一のことを考えていたから見てしまった幻かとも思ったが、頭を振っても目の前の慎一は立ち尽くしたままだった。まるでふかふかのベッドの上にいるかのような浮遊感に包まれる。足元がおぼつかない。本物の慎一だ。何か言わなきゃと思った。こんなチャンス、もうない。さっき思ったばかりじゃないか、謝りたいって。だけど焦れば焦るほど頭はこんがらがって、寄せては返す波のように言いたい言葉が溢れては逃げていく。 「あのさ」  とりあえず、と口を開いた瞬間、慎一はくるりと背を向けて、俺の声を無視して書店の出口へ向かっていった。  無視されて当然だと思った。慎一は絶対、俺のことをもう許してはくれない。  せめてもの償いというわけでもないが、俺は慎一の本を手に取った。それをレジまで持っていく。  対応してくれたのは大学生のバイトらしき女の子だった。その店員が口を開く。 「サイン会の整理券、ご入用ですか?」  サイン会? 首を捻って彼女の手元を見ると【料理研究家 牧慎一サイン会】と印刷された整理券を手にしている。 「牧慎一さんの本を購入された方が対象のサイン会があるんですが……」  店員の女性がレジ横に貼られたポスターを指さす。どうやら会場はこの書店らしい。日にちは六月の中頃が印字されている。 「あ、ください」  頭で考えることなく、とっさにそう答えていた。  慎一の名前を見て唐突に思い出したのは、幼稚園での七夕のイベントだった。  短冊に書いたお願い事が、幼稚な大きな文字が、頭の中によみがえる。  しんいちのおねがいがかないますように  慎一は、自分の願いを叶えたのだなとなぜか寂しく思った。俺はあのとき、ずっと慎一の夢を応援すると約束したはずだったのに、その約束を破ってしまった。  慎一はもう、俺との約束なんて忘れてしまっているだろうけれど。  とっくに忘れてしまっていた慎一からもらった卵焼きの味を思い出した。俺の母親が作るものは形があまり整っていない甘い卵焼きだった。それが少し苦手だったのだけど、慎一からもらったものはとても綺麗に巻かれた塩と醤油で味付けされたものだった。あのときの「おいしい」という気持ちは忘れてはいけないものだったのに。忘れていなければ慎一と疎遠になることも元カノと別れることもなかったかもしれないのに。  ちゃんと謝ろう。サイン会に行って、慎一に直接会って、思っていることを伝えないと。
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