七夕の約束事

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 *** 「なんで」  ここにいるの。そう続けたかったが、サイン会の途中だということをはっと思い出す。何種類もの野菜がミキサーにかけられるみたいに心の中がまぜこぜになった。脳が処理するよりも速く、脊髄反射で目の前にいるのが星川佳彰だとわかった。顔の表情筋がすべて固まってしまったように、どんな表情も作ることができていない気がする。きっと免許証の証明写真よりも無表情な僕がペンを握っているはずだ。  手が震えている。それくらい、佳彰と向かい合わせになることは、怖い。先日書店で佳彰を見かけたとき、なんで声をかけてしまったのだろうとずっと疑問に思っている。怖いと思っている佳彰の名前を、なぜ呼んだのだろうかと。中学のように髪は茶色じゃなくて自然な黒色で短髪だったのだけど、すぐに佳彰だとわかった。幼稚園の頃から見続けていた垂れ目がちな瞳が、昔と全く変わっていなかった。幼稚園で仲良くしてくれたこと、僕に料理の道を与えてくれたことなど感謝している部分があるのは事実だ。でも、やっぱり対峙して思い出すのは中学の苦い記憶だった。  汗が噴き出し、手にしていたサインペンが滑り落ちそうになったけれど、ぎゅっと握り直す。何度も書いて手が覚えてしまった自分のサインをなんとか書き記したが、白く靄がかかったように周囲がぼんやりとしてうまく書けたかどうかは自信が持てなかった。  周りには書店のスタッフもいるから、無表情を取り繕うようにちょっとだけ笑顔を作って「はい」とサインした本を手渡す。せっかく僕は頑張って笑ったのに、佳彰は無言だった。マジで何しに来たんだよ。そう胸倉を掴みたかったがもちろんこらえる。こんなところで騒ぎを起こすわけにはいかない。さっさと次の人のサインに移ろうと思っているのに、佳彰はその場を動こうとしなかった。 「あのー」  書店のスタッフが佳彰に声をかける。すると、佳彰の手がさっと動いた。体がこわばる。しかし差し出されたのは手紙のようだった。 「これ、読んで」  佳彰は低い声でそう言った。今日のサイン会中、手紙をもらうことはあった。スタッフも「ああ、お手紙ですね」と表情を和らげる。いつまでも受け取らない僕に代わって、スタッフが封筒を受け取った。佳彰は「じゃあ」とだけ言って去っていった。真っ白だった塗り絵にだんだんと色がつくように、ゆっくりと佳彰との色褪せた思い出がカラーになってよみがえってくる。  もう佳彰のことなんて忘れたいのに、なぜ閉じた記憶の蓋を無理やりこじ開けようとするのだろう。  書店で佳彰と偶然出会ってから、どうも腹の具合が落ち着かない。ぐるぐると黒い渦が煮えたぎっている。  今日のサイン会で、その渦の正体がわかった。これは怒りだ。僕は中学時代と違って平穏な日常を過ごしたいだけなのに。 「これ以上、僕にかかわるなよ……!」  家に帰って一番に手にしたものは佳彰からの手紙だった。真夏の快晴の空のように澄んだ青色の封筒。こんな綺麗な色、一瞬たりとも瞳の中に入れたくない。そう思った瞬間、便箋が入ったままの封筒を一気に引き裂いていた。すっきりすると思っていたのに、封筒と便箋が重なった紙の束は気持ちよく破れてくれなくて、びりびりという不快な音に自らの体が引き裂かれるような痛みを感じた。力を入れた指先が熱く、ひりひりする。あの、家庭科室で味わった屈辱と同じ濃い味が、喉の奥に絡みついている。  それでも何度かびりびりと破って紙屑となった便箋をゴミ箱に投げ入れてようやく、俺は冷静さを取り戻した。  夜の闇を背景にして窓ガラスに映った僕は、自分だとは信じられないほどこわばった表情をしていた。その視界が水彩絵の具を溶かしたように徐々に滲んでいく。惨めだ。屈辱だ。ぐっと眉間に力を入れ、天井を見上げる。涙の雫が耳の中へ流れ込み、冷たさが広がった。  少人数制の料理教室を終えてしまえば、今日の仕事は終了。料理研究家としての僕の仕事は毎日の勤務時間が決まっているわけではない。今日は夕方にはフリーになるけれど、明日はテレビ番組出演の打ち合わせが夜まである。今日のうちに母のお見舞いに行くのが正解だろう。腰痛を拗らせて入院している母の着替えを持っていくのはほとんど大学生の妹が担当してくれているが、提出するレポートが溜まっているという妹に代わって今週の担当は時間の融通が利く僕になった。着替えのほかにも母がほしいとねだったフルーツとコーヒーも持っていく。林檎をウサギの形に切ったから、退屈な入院生活のちょっとした楽しみになってくれるだろう。  入院病棟は静かなようでいて、様々な音に溢れている。それぞれの病室やナースステーションからはこそこそと話し声が聞こえてくるし、誰かが廊下を歩くたびにきゅっきゅと靴音が響く。整形外科病棟である五階北病棟を目指しながら母の着替えを入れたトートバッグをよいしょと肩にかけ直したとき、「俺さ」という声が聞こえた。たまたま前を通りかかっただけの病室から聞こえた声。スルーできるはずのその声が耳に残ったのは、声の主が佳彰だと気づいたからだ。母の病室まであと数歩で着くのに、体が硬直してしまった。佳彰の声なんか聞きたくないはずなのに、耳だけでなく、体の、全神経が佳彰の言葉を聞く態勢に起き上がった。心臓が大きく鼓動を打つ。どうして最近こんなにも彼と縁があるのだろうかと、体中の細胞から沸々と怒りが湧いてきた。 「中学のときクラスメイトをいじめたこと、後悔してるんだ。たくさん傷つけてしまった。喧嘩したまま別れちゃったら、きっとチカコちゃんも後悔するよ」  佳彰の、聞いたこともないくらい丸くて優しい声。どうして彼がここに。誰と話しているのだろう。そんな疑問が次々と浮かぶと同時に、僕の耳の神経は佳彰の言葉を一言一句聞き逃すまいとどんどん研ぎ澄まされていく。 「……退院したら、また学校に通えるようになったら、リナに謝る。せっかくお見舞いに来てくれて嬉しかったのに、ひどいこと言っちゃった……看護師さん、ありがとう。頑張ってみる」  看護師さん。佳彰はこの病院で看護師として働いているのだ。話している相手は入院患者だ。声からして小学生くらいだろうか。幼い女の子の声だった。  患者の事情まではわからない。でも佳彰は、中学のときのクラスメイトをいじめたことを後悔していると確かに言った。間違いなく僕のことだろう。今、佳彰に声をかけたら何かこれまでと変わるのだろうか。彼の後悔がなくなるのか。でも、彼の後悔をなくすために僕が行動する必要があるのだろうか。  迷いは一瞬だったと思う。再び動いた足は佳彰に声をかけることなく母の病室へと真っ直ぐに向かっていった。もしかしたら母も佳彰の世話になっているのではないかとびくびくしたが、ベッドの枕元には【担当看護師 広沢幸司】という札があり、見知らぬ名前にほっとした。 「母さん、着替え持ってきたよ。あと、林檎を切ったのとコーヒーも持ってきた」 「ああ、慎一。ありがとうね」  先ほどまでの動揺を悟られぬように明るい声を出すよう努める。寝ていた母が体を起こすとベッドが軋んだ。 気にしたくはなかったけれど、それでもやっぱり佳彰のことは頭から消えてくれなかった。 「ねえ、幼稚園が一緒だった佳彰って覚えてる?」  僕の友達は少ない。もしかしたら幼稚園での出来事を話した際、名前を出していたかもしれないと思ったけれど昔のことは忘れてしまったのか、母は首を捻って「ヨシアキくん? うーん、お母さん慎一の友達の名前まではっきりと覚えてないなあ。その子がどうかしたの?」と尋ねた。 「ううん、なんでもない」  ここの病院の看護師だとは言わない方がいいだろうし、看護師はみんな名札をつけているから苗字も教えない方がいい。母が病院のスタッフや、例えば担当の広沢という看護師にでも話してしまえば、佳彰の耳に入ってしまう可能性もある。  帰路につきながらも頭の中を巡るのは佳彰のことばかりで、佳彰の言った「後悔」という言葉が耳の奥にこびりついて離れない。気がついたら僕は部屋のゴミ箱に視線を向けていた。破り捨てた手紙の欠片は、まだゴミ箱の底に溜まっていた。自室のゴミ箱はあまり使っていないから、手紙の欠片しか入っていない。後悔してるんだ。佳彰のその言葉が繰り返し思い出される。青色の便箋の欠片を手に取ってみた。この欠片を集めるのは、彼の後悔を晴らすためではない。僕の最近のもやもやを晴らすためだ。そう言い聞かせながら便箋を繋ぎ合わせ始めた。  繋ぎ合わせる作業をしていると、徐々にでき上がっていく文章が嫌でも目に入ってくる。【中学でいじめたこと、申し訳ないと思っている】【後悔してる】【許してほしい】。そして【約束】の文字。組み合わせては、セロテープで繋いでいく。読みたくないのに、許してほしいなんて前向きな言葉は見たくないはずなのに、セロテープをできるだけ綺麗に貼ろうとする手が止まらない。知らなかった。 【慎一は忘れてしまっているかもしれないけど、慎一の夢をずっと応援するって幼稚園で約束をしたのに、破ってしまって本当に申し訳ないと思ってる。】そんなことを考えてくれていたのだ。手紙を書いてまで伝えようとしてくれたのに、謝ってくれていたのに、佳彰の気持ちを知ろうともせずに力任せに破いてしまった。ゴミ箱へ投げ捨ててしまった。  忘れてなんかない。僕の夢をずっと応援すると佳彰が約束してくれたことを。しんいちのおねがいがかないますようにと大きくて元気のある字で短冊に書いてくれたことを。慎一は夢を叶えるために頑張るって約束して、と言われたことも。  中学のときの佳彰の言動を忘れたわけでもないし、完全に許せるわけでもない。それでも、仲のよかった幼稚園の頃の記憶が次々とよみがえる。友達がいない僕に手を差し出してくれたのは、スモックの汚れを落としている僕を純粋に心配してくれた佳彰だった。そのときの佳彰の優しさを、僕は忘れてはいけなかったのに。  せめてこの手紙を修復しなくちゃ。そして佳彰に返信しないと。今、どんな気持ちで手紙を貼り合わせているのか伝えないと、僕の気持ちが収まりそうにない。
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