七夕の約束事

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 ほとんど友達のいない僕が唯一心を開いていたのは、佳彰(よしあき)だった。  その佳彰に裏切られ、僕はずっと彼を許すことができないでいた。  青色のスモックが汚れてしまった。正確に言えば汚された、になるのだけど、どちらにしても帰ってから洗濯して綺麗にしないといけないのは同じだ。わざと僕のスモックにクレヨンをこすりつけた男の子は、悪いことをしたと思っていない。この幼稚園で僕、(まき)慎一(しんいち)をからかったり意地悪したりすることはもはや恒例行事といってもいいことであったから、僕が「汚された!」と声を上げて、たとえば泣きわめいても、余計笑われるだけだった。だから僕はこっそりと、先生にさえ気づかれないように手洗い場まで走っていって、スモックの裾を流水にさらしながらこすり合わせた。  本当はいじめられているなんていう事実、認めたくなかった。運悪くクレヨンがついてしまっただけだ、と僕はこのとき必死に言い聞かせていた。 「何やってんの」 「わあ!」  聞きなれない男の子の声が耳元でして、僕は幼稚園にいるときには決して出さないような甲高い悲鳴を上げた。僕に話しかけてくる子なんていなかったから、予想外の出来事に対応しきれなくて目が回りそうになった。目を白黒とさせていると、長い前髪をピンで留めた男の子はもう一回「何やってんの」と僕の顔と流しっぱなしの水を交互に見やった。  この子、知らないんだ、と思った。この日、急に先生がみんなの前で紹介してくれた星川(ほしかわ)佳彰くんは、僕がこの幼稚園でのけ者にされていることを知らないから、話しかけてしまったのだ。  案の定「佳彰くんは、慎一くんとじゃなくて外で遊ぼうよ」というほかの男の子の声が飛んできて、星川くんはその言葉に振り返った。彼もきっと、僕から離れていくのだろうなと悔しい気持ちをぐっとこらえるように拳を握ったけれど、星川くんは呼んでくれた男の子に向かって声を張り上げた。 「俺、慎一くんとお絵かきするー!」  後から知ったことは、佳彰は絵を描くよりも外で走り回る方が好きだということだった。  佳彰という友達ができてから、幼稚園へ通うのが楽しくなった。最初は僕へのからかいが続いていたものの佳彰がいちいち言い返すものだから、みんな面倒になったのか僕に構わなくなっていった。佳彰がいれば楽しく過ごすことができるからほかの友達なんていらなかった。毎日の生活は充実していた。  お弁当の班も一緒だったことがよかった。今まではお母さんの作った彩り豊かな弁当を誰にも見られることなく一人で食べるだけだったけれど、佳彰は「慎一のお母さん、料理上手なんだね」と褒めてくれた。その日も「慎一の卵焼き、おいしそうでいいな」と羨ましがるものだったから、僕は先生の見ていない隙に「あげるよ」と一言呟いて、佳彰の弁当に卵焼きを一切れ移してあげた。 「おいしい!」  卵焼きを頬張った佳彰は目を丸くしてこっちを見た。僕は少し自慢げに胸を張った。 「卵焼きを焼いたのはお母さんだけど、卵を割ったのは僕なんだ」  今まで誰にもするチャンスのなかった話を、佳彰にだけはできた。佳彰はこちらに身を乗り出した。 「卵割れるの? すげえ。慎一は大きくなったら料理人になれるんじゃない?」  料理人。料理を作ることを仕事にする人だ。お母さんみたいに家族のために作るのではなくて、お店で、お客さんのために作る人のことだ。 「そんなあ」  大袈裟だ。大きすぎる夢だ。そう思ったけれど内心まんざらでもなかった。それほど褒められたことが嬉しかった。 「でも、料理するお仕事、してみたいなあ」  その話をした翌日は、七夕だった。先生が一人に一枚ずつ短冊型に切った折り紙を配っていった。僕の手元に配られたのは黄色い短冊だった。 「お願い事を書きましょう」  お願い事。先生にそう言われて、特にないなあと最初は思ったものだった。せかいへいわ、と書いている子もいたけれど、そんな大それたことを言う気にはなれない。こうつうあんぜん、これはちょっと身近かもしれないけれど短冊に書くことではない気がする。隣の椅子に座った男の子の手元をちょっと覗いてみると、さっかーせんしゅ、と書いてあった。この子はよく外でボールを蹴っていたな、一緒に遊んだことはないけれど、と思い当たった。これも僕には関係のない話だと思って再び自分の手元に視線を戻したとき、あ、と思わず声が出そうになった。短冊の黄色を見て思い出したのだ。前日、佳彰にあげた卵焼きのことを。そのときの佳彰との会話も。  りょうりがじょうずになりますように  水性ペンでそう書き終え、ペンを机に置いた。 「やっぱり、慎一は料理かあ」  後ろの椅子に座っていた佳彰の声が耳元で聞こえて、僕はぶるっと体を震わせた。 「よ、佳彰は何て書いたの?」  びっくりしながらも佳彰の手元を覗き込む。彼の持っている青色の短冊には、まだ何も書かれていなかった。 「ほしいものもないし、大きくなったらなりたいものもまだないしなあ。やっぱり俺はこれかなあ」  間延びした声で独り言を言ったあと、佳彰は手を動かした。佳彰の大きな文字が並んでいく。  しんいちのおねがいがかないますように 「え、え?」  佳彰がペンを置く前から焦りは増幅していった。なんで自分のお願いじゃなくて、僕のことを考えてくれるの? 自分のことを考えればいいのに。そう思ったけれど言葉にならなかった。 「俺、慎一の夢をずっと応援する。約束するよ。だから慎一も夢を叶えるために頑張るって約束して」  そう言っていたずらっ子みたいににやりと笑った佳彰の顔がいまだに忘れられない。  僕が料理を好きになったのは、確実に佳彰とのその約束があったからだ。  小学校は別々の校区だったから、佳彰との思い出はここでいったん途切れることになる。  僕たちが再会したのは、中学校に入ってからのことだった。  小学校でも友達が少なかった僕は、中学で佳彰に会えることを楽しみにしていた。  なんて話しかけたらいいだろうと入学式前日は布団に入ってからもずっと考えていて、わくわくしてあまり眠れなかった。佳彰の見た目は幼稚園の頃とは随分変わっているはずだ。僕だって大人に近づいて、昔の面影はあるが、長年会っていなかったら大人びた印象を抱くはずだ。きちんと佳彰を見つけることができるだろうか、と入学式当日はむしろ心配になった。  クラスだって多い。それでも佳彰をすぐに見つけることができたのは、彼がとても目立っていたからだ。  昔から、髪が長かった。でも、中学校の校則では、男子の長髪は禁止だった。  佳彰の髪は肩辺りまで伸びていて、それは校則に違反していた。さらに黒だった髪の色は明るい茶色に染まっていた。自転車通学も禁止されているのに、彼はどうやら自転車で登校しているらしかった。  そして佳彰の周りにいる男子たちも制服を着崩したり髪を染めたりしていて、声をかけるのを躊躇ってしまう。佳彰、なんて気安く呼べる関係ではなくなってしまったのだ。むしろ引っ込み思案で暗い僕は佳彰の周りにいる男子たちに目をつけられてしまった。あからさまないじめがあったわけじゃないけれど、運動が苦手な僕が体育で走っている姿や、英語の授業で下手な朗読を披露している様子を見ては指をさして笑ってきた。昔みたいに佳彰がかばってくれることを期待したけれどそんなことがあるはずもなく、むしろ佳彰も一緒に笑うものだから、僕は下を向いて唇を噛みしめることしかできなかった。  そんな僕が活躍できる授業が一つだけあった。家庭科の授業だ。手先が器用だから裁縫もできるし、料理は昔から好きだった。僕は中学最初の調理実習を心待ちにしていた。これならいつもからかってくる男子にも何も言われないだろう。半ば見返してやろうという心意気だったのに、やっぱり事件は起こってしまった。  ハンバーグを作るという授業だった。家でもよく作っているものだったし、慣れていれば特別難しい工程はない。同じ班に料理の得意な生徒がいなかったこともあって、全体の指揮を僕が執ることになった。 「牧くん、料理めちゃくちゃできるんだね」  班員の女子が僕の手つきを見て歓声を上げるものだから、体がほてるのを感じた。普段、女子と話す機会はほとんどないから緊張してしまう。それを隠すように「そんなことないよ」と小声で応えるのが精一杯で、僕はハンバーグを成形する作業を続けていた。そのときだった。 「女子みたいで気持ち悪い」  ぼそっと、本当に小さな低い声だったから、聞き間違いなのではないかと思ったくらいだったけれど、班員の男子がそう言った。佳彰と特に仲のいい男子だった。いつもワックスで髪を逆立てているものだから、僕はこっそりと心の中だけでハリネズミと呼んでいたのだけど、そのハリネズミの呟きだった。  隣で一緒にハンバーグを成形していた女子の手も止まったことで、ハリネズミの言葉が聞き間違いなんかじゃないことがわかった。隣の調理台で作業していた佳彰もその言葉に唇の端を持ち上げるようにして笑った。それまで賞賛してくれていた女子の声は、もう聞くことができなかった。 「料理人になれるんじゃない?」  そう言った佳彰の言葉がふとよみがえってきた。  幼稚園の頃からその言葉をずっと宝物のように大切に信じてきた僕が、馬鹿だったのだ。  人は変わる。佳彰と僕は、別々の道を歩いているのだ。  その調理実習の授業を思い出すと料理なんてやめてしまいたいと諦めそうになることは、それ以降、高校時代も大学時代もあったのだけど、いじられても何を言われても、人は食べないと生きていけない。僕が料理から離れることは結局なかった。  あのときハリネズミと一緒に唇をゆがめて見下すように笑っていた佳彰のことを許せないという気持ちはもちろんある。それでも幼稚園で交わした「約束」がずっと僕を縛っていたのだと思う。  大人になった僕は、料理研究家になった。  弁当の本を執筆してほしいという依頼が来たとき、まず思い出したのは佳彰とのそういう体が切り刻まれるような痛みを伴う思い出だった。幼稚園の頃の心躍るような記憶もあるのだけど、佳彰の名前を思い出すとどうしても中学のときの出来事が頭に浮かんでしまって丸かった気持ちが刺々しいものに変わる。だけど、その弁当の書籍の執筆依頼を断ろうとも思わなかった。もう佳彰と会うことはないのだし、思い出しては胸を痛めることはあるけれど、基本的には気にする必要もない。僕に料理という道を示してくれたことはむしろ感謝しているのだから。  だから中学校を卒業してから十五年も経ってから執筆したこの本が再び佳彰との関係を紡ぎ出すとは思ってもみなかった。
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