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第2話 出会い
「へぇ〜、栞李はブルーホールズのファンなのか~」
「うん。まあ、地元がその辺りだったから」
「そうなんだ! ちょっと遠いね」
「そうかもね。ここからだと」
初日の学校ガイダンスを聞き終えた2人は、部の説明会があるという野球部の部室へと歩を進めていた。
「ワタシはレッズ!キャッチャーのサトミちゃんが大好きなの!」
「へー……」
「もーさ~!! こないだ見に行った試合で大活躍だったんだよぉ! 大事なところでバシッと盗塁刺して、終盤のチャンスでホームラン打ったんだよ!?」
「うん。確かにいいキャッチャーだよね、あの人」
「おお~っ! なんかその言い方カッコイイ! 経験者ならではって感じだよね~」
「そうかな?」
「そうだよ! ね、栞李みたいな経験者が入ってくれれば弱いチームも強くなるかもしれないよね!」
「まだ諦めてなかったんだ……」
「トーゼンっ! 入ったからにはワタシはこの学校で全国目指すよ!」
「いや〜、そんな簡単じゃないと思うよ」
「そうなの?」
「うん。経験者は経験者でも、強い高校のベンチ入りメンバーはほとんどが中学の時の全国経験者だったりするし」
「えー! なんかそれちょっとズルじゃない?」
「仕方ないよ。そういう子たちはみんな、プロになるためにプレーしてるんだから」
「う〜、ワタシたちの新入生にもいないかなぁ、“ゼンコクケイケンシャ”!」
「……さあ、どうだろうね」
そんなことを話しているうちに、2人はまだ誰もいない野球部グランドの裏に着いていた。
「着いたけど、説明会までまだだいぶ時間あるね」
「そうだね」
「じゃあほら! 先に着替えてさ、キャッチボールしてようよ! 今ならグランド誰もいないし! 使い放題じゃない?」
「いやいや、勝手なことするのはやめといた方がいいんじゃ……」
「────あああああああアぁぁッ!?」
突拍子もない実乃梨の叫声が栞李の忠告を真上から塗りつぶした。
「ど、どうしたの?」
「ジャージ……教室に忘れてきた!」
けれど、その時の実乃梨の口まわりがあまりにだらしなく緩んでいて、栞李は堪えきれずつい息を漏らしてしまった。
「ふっ! ぷふふっ! 初日から?」
「あーもー! 笑わないでよ~」
「ごめんごめん……ぷっ! ふくくくっ」
際限なく溢れてくる笑みを必死に手のひらで覆い隠す栞李にむくれながら、実乃梨は校舎へと踵を返した。
「とりあえず教室まで取りに戻るよ」
「私もついてこうか?」
「むー、いい! すぐ取って戻ってくるから栞李はそこで待ってて」
それだけ言うと、実乃梨は1人軽い足取りで校舎の方へ駆けていった。
1人残された栞李は未だにこみ上げてくる可笑しさを何とかこなしながら、風に揺られる桜の枝木を傍観していた。
どこからか金管楽器の音が聞こえる。眠気を誘うのどかな春風には、ほんの少し潮の香りが乗っていた。
部活動紹介の冊子に書かれている集合時間まではまだ30分近くある。というのも、毎年この時間帯は校舎の出口から南門にかけて各部の上級生による新入生争奪戦が行われているらしい。
栞李は実乃梨に引っ張られていの一番に校舎を飛び出してきたためにその勧誘隊とはほとんど出くわさなかったが、そもそも最初からまっすぐグランドに向かって来る生徒なんてそうはいないはず。
ちょうどそんなことを、考えていた時だった。
「────ねぇ」
冬の夜風のような涼しげな声が、無礼なほど強烈に栞李の注意を引っ張った。
「アナタも野球部希望なの?」
そこにいたのは、まるで芸術の世界で生を受けたかのような少女。
まっすぐ肩の上まで伸びる艶やかな黒髪に、くすみのない月白の肌。歪みくねりのない鋭く整った目元。しゃんと背を張るその立ち姿は、人目の届かない高地に背を伸ばす一輪の麗花のようだった。
「……えっと」
その少女は美しくもどこか儚げで、少しでもうかつに手を伸ばせばガラス玉のように一瞬で割れてなくなってしまいそうな、そんな張り詰めた空気をその身にまとっていた。
「……? どうかしたの?」
「え? は、ぁあ。はい! そうです……って、あれ? アナタも?」
そんな少女に瞳の奥を覗き込まれて、一瞬胸が飛び跳ねる栞李だったが、彼女の胸に新入生用コサージュを見つけて、少しばかりの冷静さを取り戻した。
「アナタもってことは、アナタも新入生……ですよね?」
「そうだけど……どう見えてたの?」
「いや〜、一瞬先輩かと……」
そんな慌ただしい様子の栞李を見つめていた彼女は、不思議そうに小首を傾げた。
「大丈夫?」
「え……ううん。うん。大丈夫」
「そう。ならよかった」
そんな栞李を落ち着かせようとしたのか、少女は特に前触れもなしにほろりと頬を緩めた。
問答無用で言葉を奪われるようなその笑顔は、爽やかで清涼な香りがした。
「ねぇ、少しだけ付き合ってよ」
「ぇ?」
そう言うと、彼女はまたいたずらに表情を変えた。
「────キャッチボール。しよ」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
結局、栞李は彼女の言葉に流されるまま、足跡ひとつないまっさらなグランドに立っていた。使い慣らされた薄橙色のグローブを左手にはめて。
「アナタ、ポジションは?」
「えーっと、サードとか……ショートとか?」
「そう」
「そっちはピッチャー? なんとなくフォームがそれっぽいけど」
「そう。ピッチャー以外やったことない」
彼女は栞李とは逆の右手にグラブをはめていた。つまりは左投げ、サウスポーだった。
肩慣らし程度の緩い球を交わしながら塁間程度の距離を取ると、不意に彼女が大きく左腕を回した。
「じゃあ、そろそろ少し、強く投げるよ」
「あ、はい! うん! どうぞ……」
栞李が大きく右手を上げて答えると、彼女は大きく息を吸いながら右脚を引いた。
「ふぅ……」
彼女が投球フォームに入ったその瞬間から、栞李はその挙動ひとつひとつにはっきりと目を奪われた。
頭上へ高々と両手を持ち上げるシルエットから勢いよく右脚を振り上げる。流れるような体重移動から繰り出される彼女の細い左腕が大きく、強くしなる。
力感のない美しいオーバースローから放たれた白球は、穏やかな桜風を切り裂きながら栞李のグラブへ向かってまっすぐ伸び上がるような軌道を描いた。
「たッ……!!」
その1球を受けた瞬間、栞李の手のひらを雷に焼かれたような重い痛みが走った。けれど、手のひらを伝うその鮮烈な痺れすらどこか心地よくて。
「すごい……」
瞬間、栞李の腹の底からこれまで覚えたことのない不格好な衝動が噴きだした。
その感情はあまりに大きく、栞李がこれまで出会ってきた言葉に押し込もうにも、とても叶いそうになかった。
「どうしたの?」
「あ、いや。なんでもないよ!」
呆然としていた栞李が彼女の声でようやくボールを投げ返すと、間をあけることなく彼女の放つ白球が自然の荘厳さを感じさせるような美しい直線軌道を描く。
2度、3度と……何度受けても、その1球は新鮮な痛みと衝撃を栞李へと押しつけてきた。
それ以上、その瞬間に吸い込まれるのが怖くなって、栞李は咄嗟に口を開いた。
「そ、そういえば名前なんだっけ? まだ聞いてなかったよね」
「うん。いつになったら聞いてくるんだろうって思ってた」
「それは、その……ごめん、なさい」
どうも彼女を相手にするといつも以上に言葉が出てこない。自分でも笑ってしまうほどに喉の奥が乾燥していた。
「私はリオナ。倭田莉緒菜」
「私は末永栞李。よろしくね」
「うん。よろしく」
「…………えーーっと、すごいいい球きてるけど、莉緒菜ちゃんもしかして結構強豪チームにいた?」
「ううん。全然」
「そっか。ごめん」
「うん。別に」
「…………そ、そういえば、今何分くらいかな? 私は友達にガイダンス終わってすぐに引っ張って来られたから割とすぐここまでこれたんだけど、その友達が忘れ物したって教室行ったきり帰ってこなくて。今頃他の部の勧誘に捕まってるのかな~なんて……」
「────ねぇ」
アテもなく沈黙を塗りつぶすだけの栞李の言葉を、唐突に少し曇った莉緒菜の声が遮った。
「な、なに?」
その刺すような声音と眼色に直接心臓を握られたような心地がして、栞李は思わず息が詰まった。
「ちゃんと投げて。さっきからアナタの球、ぐにゃぐにゃ曲がってる」
「え、ああ、ごめん。私、縫い目に指かけて投げるの苦手で……」
その言葉を聞いた途端、莉緒菜の眼差しが白くくすんだ。
「どうして? 指、ケガしてるの?」
「いや、別にそういう訳じゃないんだけど……昔ちょっとマメ潰しちゃって。それから何となく癖で」
そう口にしている間、栞李は目の前の彼女の顔を直視することができなかった。
「それに私は莉緒菜ちゃんみたいにピッチャーじゃないしさ、これでも別に……」
「────アナタ、野球嫌いなの?」
そんな栞李に返ってきた一声は、これ以上ないほど直線的で、それ故に避けようのないものだった。
「そ……んな、こと」
──ない。
そう言い切ってしまえれば、この場は丸く収まるであろうことは栞李にだってわかっていた。
けれど、そこから先を言葉にしようとすると何かが喉元につっかえて口先までうまく出てこない。
栞李が黙りこくっている間に、彼女はそのすぐ手前にまで歩み寄っていた。
「ありがとう、付き合ってくれて」
「……っ」
栞李の目の前で足を止めた莉緒菜の瞳は、もう最初の時のように優しく輝いてはいなかった。
「あ、ちょっと待っッ……!」
「おーい、お待たせ〜! ごめんね~待たせちゃって。実は校門ら辺で他の部の勧誘に捕まっちゃってさ~」
まるで図ったかのようなタイミングで現れた実乃梨と入れ替わるようにして、黒髪の彼女は無言のままグランドを去っていってしまった。
「はぁ……」
「あれ? どうしたの栞李、そんか深いため息ついて。というかどちら様? 今のキレーな子」
実乃梨のきょとんとした表情に見つめられて、栞李の両肩から緊張の膜がきれーに剥がれていった。
「別に、なんでもないよ……」
「そお? あ、そろそろ説明会始まるってさ! いこ! 栞李!」
「はーい……はぁ。実乃梨ちゃんはいいよね、可愛くて」
「ん? ありがと!」
「やー、別に褒めてはないかな」
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