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第3話 運命サマの気まぐれ
「えーっと、それじゃあ時間なのでこれから女子硬式野球部の説明会を始めたいと思います!」
集まった十を超える新入生の前に立ったのは、優しそうな丸い笑顔が特徴的な女子生徒。彼女はふわふわとカールした淡い茶髪を後頭で束ねており、薄くだか唇にはリップをのせているようだった。
「まずは私、3年生で副部長の緋山菜月です。今回の説明会の進行を務めます! よろしくお願いします」
彼女の声は春に舞うわたぼうしのような、軽やかでどこか牧歌的な声だった。
物腰柔らかな先輩がおずおずと頭を下げると、ぱちぱちとまばらな拍手が起こる。その中には当然、倭田莉緒菜の姿もあって。
「えーっと、ウチの野球部は基本的にグランドが他の部と共用なので自主練習だったり、ポジションごとに分かれての練習になることが多いです。練習時間はだいたい他の部と一緒で、17時とか18時くらいには終わることが多いかな。休みの日はグランド状況にもよるんですけど、試合のことが多くて……あ、あと! 合宿やります! GWと、夏に!」
そのほとんどの情報は栞李たちに手渡された冊子に書いてある通りの内容だったが、副部長の彼女はなぜかそれには一切目を落とそうとせず、暗唱するかのようにイチイチ天を仰ぎながら話していた。
「あ! そうだ! 練習着は基本各自の自由なんですけど、あまり露出が多いものだと日に焼けたり擦りむいたりして大変なんで、みんな選ぶときは注意してね。実は私も野球始めたばっかりの時はそれが分かってなくて、お風呂に浸かれないくらい日焼けしちゃったことがあって」
優しげな彼女の冗談に、緊張気味だった新入生たちからも小さな笑いが起こる。
副部長の彼女の説明を聞いている間中、栞李はずっと心ここに在らずの状態でぼーっと配られた冊子を眺めていた。
「ここまでで何か質問がある人、いますか〜?」
そんな副部長の声から少し間をあけて、新入生の中の一人がおずおずと右手を上げた。
「はい! じゃあその右後ろの子、どうぞ!」
菜月が張り切ってその新入生を指すと、彼女はどこか落ち着かない声で質問を投げた。
「えっと……その~、このチームって『監督』とか、野球を教えてくれる指導者の方はいないんですか?」
「──ッ!?」
新入生のそのたった一言に、それまでずっと朗らかだった菜月の表情が一気に硬直した。
「そ、それはその、こないだの大会の時まではいたんだけど………いろいろあって今はいない、です」
何とも歯切れの悪い彼女の返答に、その場の雰囲気がほのかに色めき立つ。
指導者が顧問教師から専任の雇われ監督が主流になりつつあった近年の女子高校野球では、選手兼任監督というチームも珍しくはないものの、そのほとんどが実力と実績のある選手が揃っているチームの場合であり、技術を教えられる指導者もいる。明姫月のような実績のない学校に指導者となる人物がいないことは致命的な状況だった。
「け、けど、大会までには新しい人が見つかるはずなんで……」
菜月の苦々しい表情もそれを重々理解していてのことだったのだろう。新入生たちの不安の声が容赦なく彼女に突き刺さる。
そんな状況にさらに追い打ちをかけるかのように、矢継ぎ早に他の新入生からの質問が飛んだ。
「私からもひとつ質問いいですか?」
「あ、はい! どうぞ……」
菜月が力のない笑顔で頷くと、その少女は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「え~っと、私、平日は予備校もあって忙しいんですけど、その~、練習の途中早退とかってできますか?」
「えぇ……っと、それはその」
「ケガとかもしたくないですし……」
「私も! 推薦での進学を考えてて。その場合、部活動をしているほうがいいって聞いたんですけど、この部に名前だけ置いておくことってできますか?」
「えぇっ!? そ、それはさすがに……」
止めのひと声はどこからともなく、さも当然のように飛んできた。
「えー、だって、女子がどんなに頑張ったってけって男子には適わなくないですかぁ?」
菜月が口を閉ざしたのを機に、その場は一気にまとまりを失くしてしまった。
「な、なんだか大変なことになってきちゃったね……」
「そうだね」
わんわんと様々な声が乱れ飛ぶ中、栞李はふと気になって先の少女の顔を探した。
野球に対してただならぬ想いを持っているようだった彼女はこの状況に憤りを覚えているのではないかと思っていたが、当の本人は平然としたまま静かにその顛末を見守っていた。
「お、落ち着いて! みんな1回落ち着いてください!」
菜月がどれだけ必死に声を張ろうとも、一度立った波が簡単に凪ぐことはなく。
膨れ上がった大波がいよいよ彼女を呑み込もうかというその時、誰かがそっと部屋の戸を引き、彼女たちの前に現れた。
「遅れて申し訳ない。部長会が想像以上に長引いてしまったもので」
頬を刺す涼風のような凛とした声音を携えて入室してきた少女の顔を見るなり、今にも泣きそうになっていた菜月の頬が明らかに緩んだ。
その声の主は、落ち着いた足取りで菜月の隣に立つと莉緒菜に負けず劣らずの均整のとれた顔ですっきりと微笑んだ。
「私が明姫月高校女子野球部部長の川神沙月だ。よろしく」
真っ先に栞李が目を引いたのが同じ女性として羨ましくなるような細身の長身。黒曜石のような艶やかな長髪を肩甲骨の裏あたりで一本に束ねており、その切れ長の瞳やくっきりした顔立ちと相まって全体に引き締まった印象をもたらしていた。
まるで練磨した剣に服を着せたかのようなその麗しさに、今の今までまとまりのなかった新入生たちの間から一斉に悲鳴にも似た嘆声が上がった。
「あの……部長さん! 今、副部長さんに質問してたことなんですけど……」
そんな彼女にも、菜月と同じ質問が投げられる。
隣の菜月からその内容を伝え聞くと、彼女は静かに喉の調子を整えてから、改めて新入生たちの視線の中心に立った。
「そうだな。確かに、部活動に求めるものは人それぞれで異なるだろう」
沙月は新入生たちの凝り固まった視線をほぐすように、その凜然とした表情を少しだけ和らげてから話し始めた。
「そもそも野球は野外競技だから夏は暑いし、冬は寒い。練習があれば休日もなくなるし、放課後の自由時間も少なくなるだろう」
つらつらとその口から連ねられるのは、その表情とは真逆の後ろ向きな事実ばかり。
「日焼けは痛いし、慣れない間は身体中筋肉痛になるだろう。勉強も流行も後回しになるかもしれない。ましてや、この経験が必ず将来のためになるなんて、そんな保証が拾えるわけでもない」
とめどない不利益の羅列に、新入生ばかりか隣に立つ菜月までもが落ち着かない表情になってきた。
「それでも……」
それでも、彼女の顔にはそんな有色の感情は一切存在していなかった。
その瞳はまるで大空を舞う野鳥のように、まっすぐ揺らぐことはなかった。
「────それでもここなら、野球ができる」
背肌が、震えた。
心の内の何か重たいものを知らぬ間にひとつ盗まれたような、そんな清々しい心地がした。
「ここにいる1人でも多くと一緒に野球をできる日を私は楽しみにしているよ」
その先の彼女の言葉なんて、栞李はもう半分も覚えていなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「なんか……スゴかったよね」
その日の帰り道でも、実乃梨はまだどっぷりと先の言葉の余韻の中にいた。
「うん。まあ、そうだね」
「まあって、栞李はあれ聞いて何にも思わなかったの!?」
対照的に、既に落ち着き払った栞李の態度にポニテ少女は大きく頬を膨らませた。
「別にそういうわけじゃないけど……」
「も~おぅ! 面白くないな~。ワタシはこう、ばちばちィ~っときたよ! ワタシ、この人と一緒に野球したい! このチームで全国目指したいって!!」
「……やっぱり諦めてなかったんだ」
身振り手振りでその有り余る興奮を表現しようとする実乃梨だったが、栞李にとってそれはもう過ぎ去った過去の熱のようで。それより何より、その心の真ん中に重たく定住していた問題は────
「ねぇ栞李ってば! 聞いてる!?」
「えっ、ごめん何? 聞いてなかった……」
ふと我に返る栞李に、実乃梨は『やっぱりね~』と言わんばかりに大げさに首を横にすくめた。
「今度、道具とか練習着買いに行くの付き合ってって。ワタシひとりじゃ色々と不安だからさ!」
“────ねぇ、少しだけ付き合ってよ”
どこまでも付き纏う彼女の言葉に辟易しながらも、栞李は実乃梨の言葉にもしずしずと頷いた。
「うん、わかった。私でよければ付き合うよ」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「じゃーまた明日ね〜栞李!」
最後までぶんぶんと大袈裟に手を振る実乃梨を見送った栞李は、スマートフォンの案内を頼りに学校近くのマンションへと向かった。
夕暮れ色に染まった街は、見慣れない景色のはずが人々の生活が染み付いているかのような昔懐かしい匂いがした。
「ここ……だよね?」
地図の示された場所に建っていたのは10階はあろうかという背の高い葡萄茶色の建物だった。
そこは明姫月学園と提携しているマンションで、主に栞李のような他県から入学した生徒が一人暮らしをするための学生寮に似た施設だった。
「ここだ、310号室」
案内された部屋の前にたどり着いた栞李が受け取った部屋の鍵を取り出そうとすると、不意にその鉄製の鍵が栞李の指先から滑り落ちた。
「っとと…」
────きっと誰にでも起こるであろう、そんな些細な『偶然』さえも、いたずらな“運命サマ”はそれをあたかも『必然』であったかのように飾りつける。
ひとつ、大きく跳ねたそれが転がっていった先に、誰かの足元が見えた。
「はい、これ」
「あ、ありがとうございますうぇッ!?」
鍵を拾い上げてくれた少女と顔を合わせた瞬間、栞李の思考が硬直した。
夜風に揺れるやわらかな黒髪に、月明かりを吸い尽くすような曇りのない白肌。そして、まっすぐに栞李を見つめる強かな瞳。
見間違えるはずもない、昼間の彼女だった。
「り、莉緒菜ちゃん……が、どうしてここに?」
「どうしてって、ここが私の部屋だからだけど」
そう言って彼女は、ごく自然な表情のまま、栞李の隣室309号室の扉を指さした。
「ホントに?」
「本当に」
「やっぱり冗談だったり……」
「しない」
それはまるで最初からこの場所に収束するよう仕組まれていたかのような、末永栞李の慌ただしい高校生活初日の締めくくりだった。
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