見知らぬ他人の善意

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 平成も中頃。集団自殺が流行った。  流行った、という言い方は適切ではないだろう。実行された件数がどれほどあったのかはわからない。ただ、言葉として流行った、という感覚はある。実際に行われてニュースにもなったし、集団かどうかが不明というだけで、自殺者数の推移だけ見れば、この頃はまさにピークだった。  令和ほどインターネットが発達し、誰もがスマホを持つ現代では考えられないだろう。当時はまだ、ネットは「画期的」だった。  子どもは携帯電話なんか持っていなくて、パソコンは一家に一台あればいい方だった。そんな中で、「掲示板」という不特定多数と匿名でコミュニケーションが取れるツールの登場に、皆が沸き立った。あの有名な某ちゃんねる掲示板が誕生したのもこの頃だ。  現実に同じ趣味の友達がいなくても、ネットの中でならいくらでも語り合える。同好の士が集う。そんな楽しい使い方なら良いが、当然そうでない使い方も存在する。  犯罪に誘う者。出会いを求める者。そして、死を望む者。  自殺というのは勢いでやるならまだしも、計画を立てるとなるとなかなかハードルが高い。心理的にも、物理的にも。  一人で死ぬのは怖くても、友達に「一緒に死んでよ」なんて言ったらあっと言う間に絶縁され、頭のおかしい奴としていじめられる。それ以前に、そんな弱音を吐ける友人がいるなら死を選ばない気もするが。  ところが、掲示板ではこれが叶う。「もう死にたい、誰か一緒に死んで」と言うと、「私も」「俺も」と人が集うのである。赤信号、皆で渡れば何とやら。人数が集まると強気になる。実行できる気がする。具体的な案を出してくれる人がいる。  これで、集団自殺の掲示板が乱立した。まだ今ほど規制されることもなかったからだ。  しかし相手は見知らぬ他人である。本当に一緒に死んでくれるかはわからない。面白半分でからかう者、女性を誘い出して性加害を企む者、様々だった。本気で集団自殺に参加したければ、本気度が高く信頼できそうなグループを探さないといけない。  だから私は探した。中学生の時。私は本当に死にたかった。  当時は自殺防止にそれほど力が入っていなかった。自殺しようと検索をかけても、セーフティネットのようなものは上がってこなかった。まだ鬱は心の弱い頑張りの足りない人だったし、発達障害は空気の読めない馬鹿な奴だった。心に病気なんて存在しなかったし、ほとんどのことは本人の「性格」とされた。  だから「死にたい」なんて言っても、「辛かったね」なんて慰めてくれる人はおろか、「そんなことを言っては駄目」と止める人すらいなかった。なんなら子どもの口にする「死にたい」なんて麻疹のようなものと言われ、「誰もが通る道だから放っておいてもその内治る」という扱いだった。(今では麻疹は誰もが罹る病気ではないが、要するに麻疹もそんな認識だった頃だ。)  発達障害の傾向のある私は学校で浮いていて、友達ともあまりうまくいっていなかった。気分が落ち込むことが多く、しょっちゅう死にたいと思っていた。いつ死んでも大丈夫なようにと、お守りのように遺書を用意してあった。  周囲は誰もが自分を嫌っていると思っていた。関わるたびに嫌な顔をされるなら、誰とも関わらずに消えてしまいたかった。  両親はいつも喧嘩ばかりで、特にお金のことで怒鳴り合っていた。だから私は、自分が死んだら両親は喜んでくれるだろうと本気で思っていた。私の分のお金が浮くからだ。  私は要らない子だった。望んだ子ではなかったが、できてしまったから仕方なかったという旨の話を聞かされたことがある。子どもがいなかったら離婚できたのに、とは母の口癖だ。  小学生の時だったか。自分の名前の由来を調べる、という宿題が出た。名前は親から子への最初のプレゼントだという。自分の名前にどんな意味が込められているのか、期待して聞いた答えは「適当」だった。  よくテレビや本では、名前をつけるのに辞典などを見たり、画数を調べたりしているのを見る。実は縁起のいい名前なのかもしれない、と姓名判断を調べたことがある。大凶だった。本当に意味など無かった。私の出来が悪いから、育てていく内に辛くなったのかもしれないという推測も虚しく、生まれたその瞬間から私はどうでも良かったのだ。  私を現世に引き留めるものは何もなかった。家族も、友人も、恋人も。  大人から見たら笑われるような言い草だろうが、中学生にして、私は人生に疲れていた。すぐにでも逃げ出して楽になりたかった。こんな毎日は耐えられなかった。  だからネットの中で仲間を探した。子どもが一人で死ぬのは大変だ。誰か、一緒に死んで。  そして私は、一つの大きな釣り針に引っかかった。
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